2023年2月25日土曜日

2023年2月26日 主日礼拝

招詞 創世記2章7節
賛美 新生讃美歌 103番 望みも消えゆくまでに
主の祈り
主の晩餐
献金
聖書  コリントの信徒への手紙一 15章35~49節
祈祷
宣教  「復活の体」
https://youtu.be/pusrWl7Wz2A
祈祷
賛美 新生讃美歌 297番 十字架のイエスを仰ぎ見れば
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷


 今日の聖書の箇所は、「コリントの信徒への手紙一」15章35節~49節ですが、今日の箇所より前の15章13~14節に次のように書かれています。
死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
 この手紙を書いたパウロは、“キリストの復活がなかったのならば、あなたがたの信仰(キリスト者の信仰)は無駄だ”と言っているのです。
 わたしたちキリストを信じる者の信仰は“キリストが十字架にかかって死に、そして甦らされた、復活した”という事実(真実)にかかっています。そこからキリスト者の信仰は始まったからです。
 もしイエス・キリストが復活しなかったのならば、わたしたちは“実際には起こらなかったこと”に基づいて、ただ“希望のようなもの”を持って生きているだけ、ということになります。

 しかし、パウロは復活のイエス・キリストにある信仰を確信し、その信仰によって生かされていました。そして今キリストを信じて生きているわたしたちも、復活の確かな希望によって生かされています。
 わたしたちが、苦しいことが多いこの世界で生き続けることができるのは、苦難の中でも立ち続けることができるのは、復活のイエス・キリストが今は聖霊(神の霊)として私たちを支え、導いてくださっているからです。
 生きていて、人が本当に確かな希望を持つことができるのは、復活のイエス・キリストにその人が支えられ、守られているからです。わたしはキリストにある信仰者の一人として、そのように信じています。
 キリストを信じるキリスト者は皆、復活のイエス・キリストを確信し、復活のキリストにあって常に喜ぶことができます。そして私たちは復活のイエス・キリストを人に宣べ伝えることがきるのです。

今日の箇所でパウロは、キリストの復活についての人々からの疑問に対して答えています。その疑問とは、「死者はどんな風に復活するのか」、「どんな体で来るのか」という疑問でした。
 確かに、復活というわたしたちの常識を超えた出来事を、わたしたちは完全に理解するということはできません。しかし、たとえ完全に理解することはできなくても、聖書に書かれた記事を通して、わたしたちはイエス様が復活したというその出来事を知り、信じることができます。
イエス・キリストの復活は、何か精神的なことや象徴的なことではありませんでした。それは、“体の復活”を伴なうものでした。イエス・キリストの復活は弟子たちやその他の人々が見た幻や錯覚でもありませんでした。
ルカによる福音書の復活記事では、復活したイエス様は弟子たちに現れて、亡霊を見ているのだと思って恐れおののく弟子たちに向かって、次のように言われました。
『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある』(ルカ24章39節)

イエス様の復活は、“ただ一人の人間の体がもう一度生き返った(身体機能を取り戻した)”ということではありませんでした。
イエス様の復活は、“死の力は神によって滅ぼされた”ということであり、また“キリストを信じる者も、キリストと一緒に復活する”ということの証明でした。
 イエス様の復活は、今日の箇所の言葉で言えば、“朽ちないものへの復活”(42節)、“輝かしいものへの復活”(43節)、また“霊の体としての復活”(44節、46節)でした。しかし、それは人々が確かに目で見て、触って確かめることができる形で起きた復活だったのです。
 なぜイエス様の復活が体を伴なったものであることが、それほど重要なのでしょうか。なぜわたしはそれが重要だとここまで強調するのでしょうか?それはイエス様が実際に人として体をもって人としての命を生きられたからです。
イエス様の体を伴なう復活は、“わたしたちが(時に苦しみつつも)体をもって生きる地上での命は、神の前に尊く、大切なものだ”ということを意味するからです。
キリストの復活が体を伴なったものだったからこそ、わたしたちは自分の命、体を大切にすることができる、とも言えるとわたしは思います。
神はわたしたち人間を、また他の生き物をも、体をもって生きるものとして創造されました。人は一人一人みんな違いますし、他の生き物の姿も、みなそれぞれ違います。

それが今日の38~39節に書かれていることです。
38神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
 これは神の創造の業の素晴らしさ、神がいかに精緻なご計画をもって、生き物ひとつひとつを多様な形に体を持って生きるものとして造られたのか、ということを表しています。
 しかし、そのように神の不思議な業によって造られた私たち生き物も、やがて必ずこの地上での命を終える時が来ます。わたしたちには、そしてすべての生き物には死が必ずやってきます。
 ですから、ある人々はパウロに“人や他の生き物は、必ず死ぬのに、どうやって復活なんかすることができるのか?”と(おそらく嘲りつつ)、疑問を投げたのです。それは当然の疑問と言えば当然の疑問です。
 それに対してパウロは“種”を例えにして答えます。“死んで命を得る”、“死ななければ命を得ることができない”例として、麦や他の穀物などの”種”を例としてパウロはあげるのです。
 “あなたたちは、日常、種が蒔かれなければ芽を出し、実を結ぶことができない例を実際に見ているではないか。そうであるならば、死んで甦ることがそれほど不思議だろうか?”とパウロは言うのです。

イエス様もヨハネ福音書12章24節で次のように言っておられます。
 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
 種が地に落ちて死ぬことによって、新たな命である実を結ぶように、キリストの復活を通して私たちも、死から(キリストと共に)復活することが神の恵みによって定められている、というのです。
 復活する時の体は“朽ちないものへの復活”(42節)であり、“輝かしく、力強いものへの復活”(43節)です。それは“霊の体の復活”(44節)とも今日の箇所に書かれています。
その復活の姿も、今のわたしたちには完全に理解することはできません。しかし確かなことは、キリストと共にある新たな霊的な輝かしい体へと私たちも復活させられるということです。

フィリピの信徒への手紙3章20~21節に次のように書かれています。
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

では、わたしたち信仰者の死の先にある復活がそれほど素晴らしいものであるならば、わたしたちの今の身体、そしてこの地上での命はどうでもよいものなのでしょうか?
死の先には、キリストと一緒に復活させられることが約束されているのだから、わたしたちはこの地上では何も努力して一生懸命生きる必要はないのでしょうか?
決してそうではありません。わたしたちは復活の命を頂くからこそ、復活の約束を頂いているからこそ、この地上での体も大切にして生きるのです。
死の先にある復活とは、わたしたちのこの地上での命と連続しているからです。イエス様が、手に釘跡と脇腹に傷が残る姿のままで復活して弟子たちの前に表されたのも、地上での命と復活の体が連続していることを表すためでした。
イエス様の復活は、わたしたち全ての者の罪を全て背負って死なれたその生き方を、天の父なる神がお認めになって、“あなたの生き方はわたしの意志に適った。あなたは完全にあなたに与えられた使命を果たした”という神の承認を現したものである、とも言えます。
同じように、わたしたちのこの地上での命、わたしたちがこの地上でいかに生きるかは、とても重要なことなのです。わたしたちが、神が造られたこの世界で神を信じて生きること、神の戒めに従って誠実に生きることがとても重要なのです。
この私たちのために命を捨ててくださったイエス・キリストを信じ、キリストの教えに従ってこの地上で精一杯生きるようにと、わたしたちは復活のイエス・キリストによってこそ促されるのです。
 わたしたちは、自分の力によって生きるのではありません。復活のイエス・キリストによって、わたしたちは生かされています。キリストによって私たちは罪赦され、神の子としての自由を頂いています。
 神の愛と恵みによって生かされているのですから、わたしたちは全てを神に委ねつつ、復活の確かな希望を頂きながら、信仰者としての誠実な歩み、キリストに従っている生きる道を共に歩んでいきましょう。