2023年2月4日土曜日

2023年2月5日 主日礼拝

招詞 詩編71篇20節
賛美 新生讃美歌 94番 われらは主の民
祈りの時
主の祈り
献金祈祷
聖書  ルカによる福音書1章39節~56節
祈祷
宣教  「力ある方がわたしに偉大なことをなさいました」
https://youtu.be/8okezvTQNMs
祈祷
賛美 新生讃美歌 455番 われに来よと主はいま
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷


 聖書の中に書かれている数々の物語には色々な人物たちが登場します。旧約聖書から新約聖書を通して、様々な性格や特徴をもった人物たちについての物語が私たちに伝えられています。
 旧約聖書で言えば、神に最初に造られた人間であるアダムとエバがいます。アダムとエバの二人の息子であるカインとアベルもいます。カインは弟のアベルを、怒りのあまり殺してしまうという衝撃的な物語が創世記で語られています。
  それは、人間の怒りや嫉妬と言う感情が、どれほど悲劇的で恐ろしい結果を招き得るのかを描いていると私は思います。
 箱舟を造って自分と家族、他の多くの動物を大洪水から救ったノアもいます。
イスラエルの王国の偉大な王であったダビデ王もいます。しかしそのダビデ王も、大きな失敗をしたことが聖書には記されています。
 人間は誰でも失敗を犯す、また罪を犯す罪人である~それが聖書が伝える真実の一つです。
新約聖書では、イエス様の一番弟子となったペトロ(もとの名はシモン)や、またイエス様のその他の直弟子たち=12弟子たちなども、それぞれ特徴的な性格を持った人物として描かれています。
12弟子のうちの一人のイスカリオテのユダは、銀貨30枚と引き換えにイエス様を祭司長たち(ユダヤの宗教指導者たち)に引き渡して、イエス様を裏切ってしまう、というこれもまた衝撃的な事実が、福音書の中で伝えられています。
最初はイエス・キリストを信じるクリスチャンたちを激しく迫害していたパウロは、復活のイエス・キリストに出会い、キリストを異邦人(ユダヤ人以外の人たち)たちへも伝える大伝道者となりました。

その他いろいろな人物が聖書には登場します。では、そのように色々な人物が登場する聖書の“主人公(中心人物)”は誰なのでしょうか?数多くの人物が登場する様々な話が含まれているので、聖書には主人公と言える人はいない、と言うべきなのでしょうか。
そうではありません。聖書には明確な主人公がいます。旧約聖書から新約聖書を通して、聖書の主人公はイエス・キリストです。聖書はその全体を通してイエス・キリストをわたしたちに伝える本なのです。

ヨハネの福音書5章39節で、イエス様自身が、次のように言っています。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

旧約聖書にはイエス様ご自身は登場しません。しかし旧約聖書もその全体を通して、“やがて救い主として世に来られるイエス・キリスト”を指し示し、証ししています。イエス様ご自身がそう言っています。
ですから、新旧約聖書には色々な話、記録、または神から私たちへ向けられた教えなどが書かれていますが、それら全体はイエス・キリストについて証をするもの~クリスチャンはそう信じて、聖書の御言葉を読みます。
聖書はその全体を通して私たちにイエス・キリストについて教えてくれる本なのです。聖書の御言葉を通して、神が霊的に今もわたしたちに向かって語ってくださるのです。
そのように今も私たちに語ってくださる神なるイエス・キリストの御言葉を、わたしたちは他の信仰者と分かち合います。なぜなら、キリストの信仰者にとって、御言葉の分かち合いは大きな喜びだからです。
今日の箇所に登場するマリア、そしてエリサベトの二人の女性たち(彼女たちは親類同士であったと書かれています)も、主なる神からの知らせを分かち合うことによって大きな喜びに包まれました。そんな様子が、今日の箇所に描かれていると私は思います。

今日の箇所は、マリアが天使ガブリエルによって「あなたは偉大な王になる子を産む。その子は偉大になり、イエスラエル全体を治める者になる」と言うお告げを告げられた後、親類のエリサベトに会いに出かける場面です。
マリアは、天使から「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子をみごもっている。」とも、告げられていました(1章36節)

今日の朗読箇所の始め、39~40節はこのように言います。
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
 聖書の記述は、何げない一文の中に、結構大変な事実が隠されていることがあります。39節は、まさにそのような一文です。
39節をただ何げなく読むだけでは、マリアは、すぐ近くに住んでいたエリサベト(夫ザカリアの家)に会いに行った、というように読めてしまいます。
しかし、マリアが住んでいたのはガリラヤのナザレという町です。今日の前の箇所で、天使ガブリエルがマリアに現れ、マリアがキリストを生むと告げたのも、そのナザレの町でした。
ガリラヤのナザレから、エリサベトと夫のザカリアが住んでいた「ユダの山地」(ユダの地域のどのあたりなのか、はっきりとは分かりませんが)までは南へ120~160キロぐらいはありました。

 ですから、マリアはちょっと簡単に出かけてエリサベトに会いに行った、ということではないのです。
 それは少なくとも数日はかかる大変な旅だったはずです。当時の旅には今とは比べものにならないほどの色々な危険(強盗に襲われたり、獣に襲われたり)が伴いました。
マリアは女性で妊娠もしていました。マリアはできるだけ安全に旅行するために、今で言えば“団体旅行”の一団の一人としてユダまで行ったのであろう、と言う推測もあります。
 しかしマリアは、そのように長く危険な旅をしてでもエリサベトに会いたかったのです。それは彼女たち二人が、主が彼女たちにしてくださった恵みの御業について分かち合うためでした。
 マリアは聖霊によって身ごもりました。マリアの子はイエス・キリストとして、やがて救い主になるお人でした。そして親類のエリサベトは年老いていたのに身ごもりました。
エリサベトの子は、やがて“洗礼者(バプテスマ)のヨハネ”として、イエス・キリストの伝道活動の道を準備することになる人でした。

神の恵みを分かち合うということ、そして神の恵みを人に伝えるということは、100数十キロの危険な旅をしてでも、する価値のあることなのです。どうしてもそうしたいと、信仰者であるならば、心から願うことであったのです。
 歴史上多くの宣教師たちが、出身地を離れて遠いところまで、海を越えた外国にまでキリストの福音をつたえる働きを、多くの危険をおして、してきました。
  今私たちが聖書を手にすることができ、キリストへの信仰を持つことができるのも、そのような宣教者たちの働きのおかげであると言えます。
神によって福音伝道の熱意と願いを与えられた多くの宣教師たちの働きによって、今世界中に福音が伝えられています。
 私たちも、たとえ海外ではなくとも、または100数十キロの距離でなくても、身近な地域へ、日々出会う人々へキリストの福音とキリストの光を伝える器として用いられたいと願います。
 エリサベトはマリアの挨拶の言葉を聞いて、胎内のこどもも一緒に踊って喜んだと、41節に書かれています。神の偉大な御業の知らせが、人にどれほど大きな喜びをもたらすものであるかが、そこでは描かれています。

そしてエリサベトが45節で次のように言っています。

45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
エリサベトはマリアに「あなたは幸せだ。祝福されている」というのです。なぜでしょうか?それはマリアが、”主がおっしゃった(約束した)こと”を信じたからです。
主なる神のおっしゃったこと、神の御言葉と約束を信じることができる~それが私たちにとっての幸せなのです。
そう考えると、牧師である私は本当に幸せな仕事をしているなと思わされます。聖書を読み、聖書の言葉が真実であると信じることができるからです。
そしてさらに、“この御言葉は真実なのです。わたしたち一緒にそのことを喜ぶべきなのです”ということを公けに語る(宣教する)ことが許されているからです。
教会の皆さんが牧師である私にその務めを託してくださっている、その恵みと喜びを私は改めて覚えて、感謝をしたいと思わされました。
 そしてもちろん牧師でなくても、神の言葉を信じ、神の言葉を他者と分かち合い人に伝えることは、すべてのキリスト者に託されていることです。わたしたちは大きな喜びをもって、福音をつたえる者になりたいと願います。

46節からは「マリアの賛歌」(神を讃える歌)と言われる、マリアによる神への賛美の言葉が書かれています。
 48節から49節までお読みします。
48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。

「こんな小さなわたしに、主は目を留めてくださった(心にかけてくださった)」とマリアは言うのです。「力あるお方である主が、わたしに偉大なことをなさった」~そのことがものすごく幸せだと言って、マリアは心の底から神を讃えるのです。
「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」というマリアの言葉は、この時マリア(とエリサベト)に起きた出来事は、”それはマリアだけのことではなく、すべての人にも与えられる神の約束であり神の恵みなのだ”ということを表しています。
神の恵みの業、神の言葉は永遠だ、とマリアはここで宣言し、わたしたち全ての者に向かって神の約束をここで告げているのです。
ですからわたしたちは、マリアに偉大なことをなさった神の御業、その約束は今の私たちにも与えられている、と信じることができるのです。
「こんな小さなわたしに、主なる神は目を留めてくださり、偉大なことをなさった」ということを、私たちも信じ心から喜ぼうではありませんか。
主なる神が御子イエス・キリストを通して、この私たちひとり一人をどれほど大切に思ってくださり、愛してくださっているのか~そのことを私たちに伝える聖書の御言葉を、私たちはこれからも分かち合い、神の恵みに共に預かっていきたいと願います。