2023年2月18日土曜日

2023年2月19日 主日礼拝 

招詞 詩編103篇2~4節a
賛美 新生讃美歌 92番 喜びたたえよ
主の祈り
献金
聖書 エフェソの信徒への手紙1章3-14節
祈祷
宣教 「キリストにある祝福」
祈祷
賛美 新生讃美歌 363番 キリスト 教会の主よ
頌栄 新生讃美歌 672番


皆さん、おはようございます。
今年度、私たちの教会――別府国際バプテスト教会(BIBC)――は、「主の恵みに目を留める」という年間主題のもとに、教会の歩みを進めています。(主題聖句はエフェソ2章8節です。)
エフェソ書は、全体で6章、そんなに長いものではありません。皆さんも是非一度、全体を通してお読みいただきたいと思います。読んでみて分かることは、構成が非常にはっきりしている、ということです。
すなわち、大まかに前半の3章と後半の3章に区分されます。1章から3章までは教理的な部分、4章から6章までは実践的な部分です。そして、前半では、神への賛美とともに、特に救いの教理が感動的な文章でつづられています。また後半では、その救いにふさわしい歩みが、様々の角度から、非常に具体的に述べられています。
全体を要約すると、エフェソ書には、2章8節の「恵みにより、信仰によって救われた」ということ、そして10節の「善い業を行なって歩む」ということが、どういうことなのか、が具体的に記されている、と言って良いでしょう。

すでに酒井牧師が、このエフェソ書から3度ほど、特に元日の主日礼拝では、この同じ1章3-14節からメッセージを取り次いでいただいていますが、有名な加藤常昭という説教者が、「この3節から14節というのは、本当は何度も説教をしなければならないところです。・・・あまりにも豊かすぎるのです。」と言っています。
それで、私も、この箇所から、今日のメッセージを取り次ぎたいと思います。

まずエフェソ書の背景的なことを少しだけお話しします。
1章1節によれば、この書は使徒パウロによって書かれたものです。彼は、ユダヤ人でした。そして、受取人(この書でしばしば「あなたがた」と言われている)は「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」――エフェソのクリスチャンたち――です。そのほとんどは「異邦人」(ユダヤ人以外の人々)であったと思われます。
そして、この書で「わたしたち」と言う場合、多くは「異邦人」をも含めたクリスチャンを指していると思われますが、一部、「ユダヤ人」に限定して用いていると思われる箇所もあります。
パウロは、最初は他の多くのユダヤ人と同じように、いや、それ以上に、キリストを信じる者たちを激しく迫害していました。しかし、復活の主イエス様の顕現に触れて回心し、逆に、迫害をものともしないでキリストを伝える伝道者に変えられました。
そして、この手紙を書いた時、パウロは、ユダヤ人の迫害のために捕えられて、獄中(牢屋の中)にいました。
その獄中で書かれた手紙が、なぜこんなにも賛美に満ちているのか、今日はその辺に注目したいと思っています。

1章3節をもう一度お読みします。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」
この前半部は、口語訳聖書(Bible, Colloquial Translation Japanese)ではこう訳されています。
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。・・・」
英語訳でも、“Praise be to the God …”〔NIV、1984年版〕となっています。
この手紙を書いたパウロが、これから書こうとする、「わたしたち」に与えられている「霊的な祝福」のことを思いながら、真っ先に出て来た言葉が、神への賛美の言葉でした。さらに、6節にも、12節、14節にも、神を「たたえる」言葉が出て来ます。
この手紙が書かれた原文であるギリシア語では、語順はかなり自由で、最も強調したい語が文頭にくる、という原則があります。原語で文頭にある「ほむべきかな」を、パウロは強調したいのです。

この時パウロが獄中にあったことを考えると、これは驚きではないでしょうか。
続いて、3節の後半部分には、
「神は」、「わたしたちを」、「キリストにおいて」、「天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」とあります。
そして、実はギリシア語の原文では、「キリストにおいて」が3節の最後(文末)にあります(NIVも同様)。ギリシア語では、二番目に強調したい語が文末にくる、という原則もありますので、「キリストにおいて」が第2の強調点、と言って良いでしょう。

それから、4節から14節までは、「あらゆる霊的な祝福」が具体的に記されています。今日はその中から、3つのことに目を留めながら、少しだけですが、その恵みを味わってみたいと思います。
第1に5節。
「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」
ここから分かることは、わたしたちは「神の子」にされている、ということです。ヨハネも、その第1の手紙(3:2)で「わたしたちは、今既に神の子です・・・」と言っています。
また、ローマ書8章14-17節 (Romans 8:14-17)にはこう記されています。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。・・・」

ここではまず、私たちは「神の子」にされているのですから、奴隷が主人を恐れるように神を恐れる必要のないこと、むしろ、「アッバ、父よ」と――幼い子どもが、「お父さん」、「パパ」と言って、父親の腕に飛び込んでいくように――神様のふところに飛び込んでいける、そういう関係に入れられた、ということが記されています。
また、「神の相続人」だとも言われています。私は、2年半ほど前に、叔母を亡くしました。そして、叔母に子どもがいなかったために、叔母の遺産をいくらか相続しました。本来私の物ではないもの、私が努力して稼いだ物でないものが、「相続人」というだけで与えられたのです。
神は、天地万物を創造し、今も維持し支配しておられるお方です。その「神の相続人」という立場が、どれほど素晴らしいものか、私たちの想像をはるかに超えていると言ってよいでしょう。

次に目を留めたいのは7節です。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」
ここには、「贖われ、罪を赦され」た、とあります。贖い、罪の赦しは、私たちの救いの中心あるいは根本と言ってもいい、大切なことです。
またローマ書を引用しますが、6章23節(Romans 6:23)にはこう記されています。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
「死」はアダムとエバの罪の結果として、人間の世界に入ってきました。そして全人類は死ぬべきものになってしまいました。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって、キリストを信じる者は、罪を赦され、永遠のいのちにあずかる者とされました。
このローマ書で言われている「死」は、その後で、「永遠の命」と対比されていますから、単なる肉体の死ではなく、「永遠の死」を意味しているでしょう。

そして3つ目は、13節です。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」
「あなたがたも」と、ここでは特に異邦人クリスチャンについて語られています。(ここにおられる皆さんも、私も含めて皆異邦人だと思いますが、)異邦人――それまでイスラエルの神、真の神と関わりがなく、キリストを知らなかった者――も、「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞いて信じ」た時、「約束された聖霊で証印を押された」、すなわち、聖霊が与えられた、ということです。
聞いた福音を信じること、それがこの祝福に入れられる条件です。条件はただ一つ、福音を信じることです。

14節によれば、この聖霊は、「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」です。わたしたちは皆、やがて、いずれは、この地上の生涯を終えなければなりません。それがいつであるかはだれにも分りません。あるいは、イエス様の再臨の方が先になるかもしれません。いずれにしろ、私たちには、「御国を」――天国を――「受け継ぐ保証」として聖霊が与えられているのです。
さらに、先ほど引用したローマ8:16には、「この霊こそは」、聖霊こそは、「わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださる」と記されています。私たちが、神様に、「天のお父さま」と言って、お祈りできるのも、この聖霊の働きによるのです。
そして、最後にこの3つの箇所で、注目していただきたいことが、もう一つあります。
まず、5節の「イエス・キリストによって」、そして7節の「この御子において、その血によって」、それから13節の「キリストにおいて」です。この3節から14節までの間に「キリスト」を指す語が13回も出て来ます。

私たちに与えられている「あらゆる霊的祝福」のどれ一つをとっても、イエス様と関係なしに与えられるものはありません。
そして、もし私たちが信仰によってキリストにあるなら、イエス様につながっているなら、たとえ周囲の環境がどうであれ、パウロのように、獄中にあってさえも、この「霊的祝福」を自分のものとして、私たちは与えられているのです。
私たちは、目に見える良いもの、あるいは良いこと、試験に合格したとか、病気が癒されたとか、事故から守られたとか、願いが叶ったりだとかがあると、それを恵みだと感じます。それも確かに神様の恵みです。そして、それを感謝することは悪いことではありません。むしろ感謝すべきでしょう。
しかし、クリスチャンになったからと言って、すべてが上手く行くわけではありません。確かに、不思議なように物事が上手く運ぶという経験を私も何度もしました。しかし、一方で、苦しいことも何度も経験しました。私の場合、苦しい経験というのは、たいてい、自分の罪であるとか、あるいは怠慢、高ぶり、愚かさ等が原因であったと思いますが、
しかし、それでは、自分に罪や怠慢もなく、やるべき事を完璧にやっていれば、そのような困難に遭うことはないかというと、決してそうではないように思います。
神様を信じているのに、何でこんなことが起るの? と思えるようなことが、少なからず起ってくるのが、私たちの人生の現実ではないでしょうか。
しかし、困難な状況の中におかれていたとしても、もし私たちが、キリストにつながっているならば、イエス様を信じているならば、ここに記されている「霊的な祝福」は今も私たちのものなのです。
困難・苦難の真っ只中で、パウロのように神を賛美するというのは難しいかもしれませんが、たとえ獄中につながれていても、神を賛美せざるを得ないほどの祝福を、私たちも頂いているのだということを覚えて、私たちも、いつも神を賛美する者でありたいと願います。
私の力では、そしてまた限られた時間では、このエフェソ書に記されている「霊的な祝福」の素晴らしさを十分に語ることはできません。どうか、皆さんそれぞれが、「神の子にされていること」、「罪が赦されていること」、そして「聖霊が与えられていること」などについて、それがどんなに素晴らしいことであるか、じっくり味わってみることをおすすめします。

今日は、1章17-19節(Ephesians)の、パウロの祈りの言葉を,私の祈りとしてメッセージを閉じたいと思います。
お祈りします。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」アーメン。