2023年2月11日土曜日

2023年2月12日 主日礼拝

招詞  ルカによる福音書6章38節
賛美  新生讃美歌81番 父なるわが神
主の祈り
献金
聖書  創世記48章1~7節
祈祷
宣教  「イスラエルは力を奮い起こした」
https://youtu.be/pyeVkEXaW5I
祈祷
賛美  新生讃美歌492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌672番


キリスト者、そしてキリスト者の集まりであるキリスト教会が受け継いでいるものーそれは、神の言葉であり神の約束です。
神の言葉と神の約束は聖書の中に書かれた言葉と物語の数々を通して、いまもわたしたちに伝えられています。
神の言葉と神の約束は人を励まし、人に力を与え、そして信仰的・霊的に私たちを成長させます。神の言葉は人を変えます。ですから神の言葉と神の約束は、それを信じて生きる信仰者を通しても表される、と言えます。
わたしたちは自分の信仰成長を自分で測ったり自分で自分の信仰成長を評価したりすることはできない(あるいはすべきでない)かもしれません。

しかしそれでもあえて私自身のことを言えば、イエス・キリストを救い主と信じて生きる決心をして以来、神の導きと恵みによって、わたしの信仰は少しずつ育てられ、成長させられてきたのではないか、と思います。
それは自分自身を頼るよりも神を頼ることを学んだ(今も学んでいる)ということだと思います。そしてそれは、“自分の考えや計画よりも、はるかに大きくそして完全なご計画とお考えが神にはある、と信じることを学ぶ過程”でした。
神は最善の素晴らしいご計画とお考えをお持ちである~そう信じることができれば、たとえ色々なことが自分の願ったとおりに行かないことが多くあるとしても、“神はもっとすばらしいご計画をお持ちなのだ”と信じることができます。
あるいは困難な状況の中にあっても、「神はこの状況の中で、きっと私に何かを学ばせよう、わたし自身の弱さや罪をわたしに気づかせて、わたしを成長させようとしてくださっているのだ」と信じることができます。
ですから、以前よりも(若いときよりも)、なかなか自分の思い通りに行かないことがあっても、“わたしの思いや考えよりも、より良いご計画が神におありなのだろう”と思えるようになった、と思います。

わたしが会社に勤めていたころ、わたしは一社員として仕事をしていました。組織の一員として働く中で私は時々、組織の上に立つ人、グループのリーダーや社長のような立場にある人が、大きな観点から下す判断に驚くことがありました。
それらは、一社員の私ではできない(少なくとも私にはできかなった)発想や決断でした。「自分の考えは小さくて、狭いな」と思わされることが、何度かありました。
しかし、どんなに優れた上司やリーダーであっても、人間である以上完璧ではありません。人間は必ず間違いを犯します。
しかし私たちは、今日の聖書の箇所の中でヤコブが言っている言葉で言えば、“全能の神”=すべてを御存じであり全てを善きことへと変えてくださるお方に守り、導かれているのです。
ですから私たちは、自分自身よりもはるかに大きな、主なる神の御計画と御心を信じて生きることができる~そんな幸いを与えられているのです。

今日の聖書箇所のヤコブという人も、神によって(信仰によって)大きく変えられた人であり信仰を成長させられた人であったと思います。
老齢になったヤコブがいよいよ永遠の眠り、死に赴こうとしています。だれかが息子のヨセフに「お父上がご病気です」と伝えました。その言葉の意味は、ヤコブの健康状態が非常によくないということでした。
“ヨセフがやってきた”と聞くとヤコブ(神から与えられた別名がイスラエル)は“力を奮い起こして”寝台の上に座った、と今日の2節に書かれています。
ヤコブは高齢で死の間際にありましたら、身を起こして座るということも体力的、身体的に大変な動作だったのしょう。しかしヤコブは、渾身の力を振り絞って、身を起こしました。
わたしは、この“イスラエル(ヤコブ)は力を奮い起こした”という今日の箇所の表現を、今日のメッセージの題にいたしました。それぐらい、ヤコブのその振る舞いがわたしには印象的だったのです。
ヤコブが力を奮い起こして、渾身の力を込めて起き上がったのは何のためだったのでしょうか。それは、“神の祝福を息子ヨセフに(一緒にいた孫のマナセとエフライムにも)与えたい”というヤコブの願いでした。

ヤコブはかつて、兄のエサウから“長子の特権”をエサウが好きな食べものと引き換えに得たり、父イサクからの“祝福”(それは本来エサウがもらうべきだった)を、イサクを騙して(自分がエサウの振りをして)奪ったりしました。
それは“欲しいものは何としてでも手に入れる”という態度であり生き方であったと言えるでしょう。“勝てば官軍”という言葉がありますが、若い時のヤコブの生き方はまさにそのような生き方でした。
しかし今や彼は、死の間際になって、渾身の力を振り絞ってでも、“人に祝福を分けあたえたい”と願い、実際にそのように行動する者へと変えられているのです。
そのようにヤコブが変えられたの、神の導きであり賜物でした。ヤコブは色々な経験を通して、欲しいものを人から取る、のではなく良いものを人に与える者へと変えられたのです。

イエス様は、ルカ福音書6章38節で次のように言われました。

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

ヤコブは旧約聖書に描かれる時代の人ですが、「受けるよりも与えるほうが幸い」という生き方を、神の恵みの信仰によって、実践できる人へと変えられたと言ってよいと思います。
ヤコブが力を奮い起こして、息子ヨセフに伝えた言葉を、聞いてみましょう。3~4節です。
3ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、
4こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし/あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に/永遠の所有地として与えよう。』

ヤコブがここで“全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて”と言っているのは、かつてヤコブが兄エサウの敵意(殺意)を逃れて、生まれ故郷を旅立った時のことでした。
創世記28章の中の箇所で、主がヤコブの夢の中に現れました。以前にもわたしは何回か引用したと思いますが、創世記28章13~15節をお読みします。
 
13見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

ヤコブはそれから、この時の主の約束の言葉が確かに真実であることを、信仰の経験を通して学んだのだと思います。
「神はわたしがどこに行っても、わたしと共にいてくださった」、「わたしが望む以上のことを、わたしにあたえてくれた」と彼は信じることができるようになったのです。
自分自身が引き起こしたと言ってもよい兄エサウとの不和のために、ヤコブは生まれ故郷を離れなくてはならなくなりました。しかし、神の恵みによって、約20年という時間がかかりましたが、ヤコブは兄エサウと和解することができました。
そして“もう死んでいなくなった”と思っていた息子のヨセフともヤコブは会うことができたのです。

今日の箇所より少し後にヤコブはこう言っています。
「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」(11節)

神は私たちが望む以上のこと、最善を私たちに与えて下さるお方なのです。それが聖書が伝える神の言葉であり、神の約束です。
“全能の神”とはどういう意味でしょうか。聖書の神、イエス・キリストの神は何でもできるお方であり、神にできないことはありません。しかし、それはわたしたちが望んだ通りのことをすべてそのまま神がいつも叶えて下さる、という意味ではありません。
なぜなら、最初に申し上げた通り、神はわたしたちの思いや考えをはるかに超える、大きなご計画の中で私たちを最善へと導いてくださるお方であるからです。
神は、時には試練や悲しみを通しても、わたしたちを強くさせ、成長させてくださるからです。生きる上では辛いこともあります。愛する人や家族とのこの世での別れのように、胸が張り裂けるような辛い経験も私たちはします。
ヤコブも、今日の箇所の中で、最愛の妻ラケルに先立たれた時のことを述べています。ひょっとしたらその時(ラケルを亡くした時)には、ヤコブの神への信仰も揺らいだかもしれません。

しかし、神はヤコブを恵み続け、ヤコブを放すことがありませんでした。そのようにわたしたちもいつも神の御手に守られ、“神はわたしたちに最善を与えてくださる”と信じることができるのです。
そのような信仰こそがわたしたちを本当の意味で、真の意味で生かすのであり、そのような生き方こそが、神と共に歩む幸福な生き方です。
聖書を通して私たちに伝えられる神の言葉と約束を私たちは信じ、分ち合い、そして同じ信仰に生きる信仰者同士の励まし合いと支え合い、祈り合う交わりの中で、信仰生活をこれかも送っていきましょう。
そしてわたしたちも、イエス・キリストの福音を他者に証しし伝える機会が与えられたときにはいつでも、“力を奮い起こして”福音を語る者になりたいと願います。
イエス・キリストの福音こそが、すべての人を励まし生かし、そして真の命と真理へと私たちを導くのです。ですから、福音に生きて福音を語り伝えることを、私たちも何よりの喜びとしようではありませんか。