2023年4月1日土曜日

2023年4月2日 主日礼拝(受難週)

招詞 ゼカリヤ書10章9節
賛美 新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて
祈りの時
主の祈り
献金
聖書 マタイによる福音書26章47~56節
祈祷
宣教  「友よ、しようとしていることをするがよい」
https://youtu.be/izYTTJBOlCI
祈祷
賛美 新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


 今週はキリスト教で「受難週」と言われます。イエス・キリストが十字架にかけられて死なれる前の最後の一週間のことを私たちが特に覚える週です。
イエス様が十字架にかけられて死んだのは金曜日でした。ですから今週の金曜日は、私たちはイエス様が私たち人の罪を背負って十字架の上で苦しまれた、その受難を特に覚え、神に悔い改めと感謝を献げます。
イエス・キリストは死んでから三日目の日曜日に復活をしました。来週の日曜日は、いよいよキリストの復活をお祝いする復活祭(イースター)を迎えます。
十字架の先には復活の希望があります。しかし復活のその希望は、十字架の上でどれほどの恵みの業が私たちのために成し遂げられたのか、十字架への道をイエス様がどのようにして歩まれたのかを私たちが理解してこそ、より明らかになります。
ですからわたしたちは、イエス様が十字架へ向かわれたその道のりに心を傾けて、イエス様がわたしたちのために負ってくださったその重荷を、今日も覚えたいと願います。

今日の聖書箇所は、イエス様の弟子の一人であったユダが、武器を持った大勢の群衆を引き連れて、イエス様を捕まえにくる場面です。ユダという人は「キリストを裏切った人物」として長く歴史上にその名前が記憶されるようになりました。
ユダは今日の箇所の最初の節で「十二人の一人」と書かれています。ユダは、イエス様によって選ばれてイエス様と共に生活をした、最初の弟子の一人でした。
ユダは、イエス様と共に神の国を人々に伝える働きをした12弟子、つまり他のどの人たちよりも、イエス様の近くにいて仕えた弟子たちのうちの一人だったのです。
 そのユダが、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆と一緒にイエス様のもとへとやってきました。それは、イエス様を裏切って、祭司長たちに引き渡すためでした。

今日の箇所の前の25章14~16節に、ユダが祭司長たちのところへ行って、イエス様をお金と引き換えに引き渡す、という約束をする場面が描かれています。
 そこでユダは祭司長たちに「あの男(イエス様)をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と聞きました。「そこで祭司長たちは銀貨30枚を支払うことにした」と書かれています。
 「銀貨30枚」とは、どれぐらいの価値があったのでしょうか?当時、複数の種類の“銀貨”があったようで、ユダが受け取った銀貨がどの銀貨であったのかははっきりとは分からないので、その価値は正確には不明です。
一つの可能性として、もしその銀貨が、マタイ福音書の別の箇所で登場する「デナリオン」の銀貨であれば、その価値を推測することは可能です。
マタイ20章1~16節に、朝早くから主人に雇われて働いた労働者も、夕方5時ぐらいに雇われて一時間しか働かなかった労働者も、皆約束通りの1デナリオンを主人からもらった、それで長く働いた人が怒った、という、イエス様による譬え話があります。
1デナリオンは当時の平均的な労働者の一日分の賃金であったと言われますので、1デナリオンは大体一万円と考えることが多いです。
 そうだとすれば、銀貨30枚は、大体30万円になります。
ユダは、そのお金がほしくてイエス様を引き渡したのでしょうか。
 わたしは以前は、お金が欲しかったというのも、ユダがイエス様を裏切った理由の一つであろうと思ってはいました。しかし、それはどうも私には納得のいかないことでもありました。
 12弟子の一人として、イエス様の一番近くにいて、イエス様の働きを間近で見ていたユダが、ただ「お金が欲しい」という理由で、イエス様を引き渡す(裏切る)とは、考えにくくないでしょうか。
 そう考えながら、ユダが祭司長たちから銀貨30枚をもらう約束をしたその箇所を、私は今回何度か読んで、そして思いを巡らせました。

 そしてわたしにはこのように思えてきました。ユダはその時、自分がしようとしていることの価値、あるいは彼自身の価値(意味)を他の人に認めてほしかったのではないか、ということです。
 ユダがイエス様を引き渡そうとした理由は、はっきりとは分かりませんが、イエス様によっては、自分が期待していたような理想は実現されない、とユダは考えたのが理由だったかもしれません。
 当時ユダヤを支配していたローマ帝国の支配を打ち破るような、強い軍事的な指導者としての役割を、ユダはイエス様に期待していたのかもしれません。
 しかしイエス様は、神の真の愛と平和をもって神の国を人々に説き続けました。そのやり方にユダは限界を感じ、「これではローマ帝国を倒すことはできない」と考え、あるいは幻滅さえしたのではないでしょうか。
 あるいは、ユダは何が正しいことであるのか分からなくなり、混乱をしていたのかもしれません。そんな時に、自分がすること、あるいは自分自身に価値があるかどうかを、手っ取り早く判断できる一つの基準が“お金”だったのです。
 「銀貨30枚」(約30万円)―自分がこれからしようとすることに、それぐらいのお金を出そうという人たちがいる。
“だから自分がこれからすることは少なくともそれぐらいの価値があることなのだ”、“それはやる意味のあること(価値のあること)なのだ”と、ユダは思って自分を納得させようとしたのではないでしょうか。
 わたしたちは、自分自身の価値をどのように測りますか?わたしたちは自分をどのように評価しますか?どれぐらいのお金、収入を得ているかで、わたしたちは自分自身、あるいは他の人の価値を測っていないでしょうか?
一日中働いた労働者は、たった一時間しか働かなかった者が同じ給料をもらったことになぜ怒ったのでしょうか?それは一時間しか働かなかった人より、一日中働いた自分のほうが評価されて当然だ(自分のほうが価値がある)と思ったからです。
 しかし、聖書はそれとは全く違った基準を示すのです。神は人をそのようには見ておられないのです。
朝から一日中働いた人にも、最後一時間しか働けなかった人にも、神は同じだけの愛を注ぎ、約束通りの物を与えて下さる~労働者の譬えは、そのような神の愛を表しています。

イエス様は、自分を裏切るために近づいてきたユダに、今日の箇所でこう言っています(今日のメッセージのタイトルにもしました)「友よ、しようとしていることをするがよい
 ご自分を裏切ろうとして近づいてきたユダを、イエス様は「友よ」と呼んだのです。わたしたちは普通、自分を裏切る人を「友達」とは呼びません(思いません)
しかし神の基準は違うのです。自分をこれから裏切る者を「友よ」と呼ぶのです。呼ぶだけでなく、神は本当にそのような者さえもご自分の“友”としてくださっているのです。それが聖書の伝える神のお姿です。

一日中働き続けても、一時間しか働けなくても、先生であるお方をわずかなお金と引き換えに裏切ってしまっても~それでも天の神はあなたがた(わたしたち)を「友」と呼んでくださるのです。これが、神の恵みです。
 神は今でも私たちに次のようにおっしゃっているのではないでしょうか?「銀貨30枚があなたの価値じゃない」、「他の人より優れた仕事ができるとか、能力があるから、あなたは価値があるのではない」
「他の誰が何と言おうとわたしはあなたを友と呼ぶ。わたしはあなたを愛している」~そのような、考えられないほどの神の愛が、わたしたちに今もイエス様を通して与えられているのです。
わたしたちは、ただ神様の愛のゆえに、わたしたちがどれほど神の前に罪人であろうとも、神様に赦された存在として生きることができるのです。そのことの証明として、イエス様は十字架の上で命を献げてくださったのです。
 わたしたちは、十字架のイエス・キリストを見上げ、十字架のイエス様にこそ、わたしたち自身の本当の価値、かけがえのなさが示されていることを覚え、感謝をしようではありませんか。

 イエス様が捕まると、イエス様と一緒にいた者の一人が剣を抜いて、大祭司の手下の一人に切りかかり、片方の耳を切り落としました(51節)
 そこでイエス様は次のようにおっしゃいました。(52~54節)

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
 十二軍団の「軍団(legion)とは当時のローマの軍隊で6000人の部隊だったそうです。ですからイエス様は、もしイエス様が望めば、天の父なる神は72,000人の天使の軍隊だって送ってくださる、と言ったのです。
 しかしイエス様は、自分に反対し敵対する者たちを、そのように強力な軍事力でもってねじ伏せて、むりやり言うことをきかせることはしない、と宣言しているのです。
 そうしようと思えばできるけれども、イエス様はそれでは「聖書の言葉が実現されない」とおっしゃったのです。イエス様がその時、聖書のどの箇所のことを言っておられるのかは不明です。
 それはむしろ聖書全体が伝えるメッセージである「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)を指している、と言ってもよいでしょう。
 わたしたちの人間の持つ悪、邪悪さ、神様から自ら離れた罪を全て背負って赦すため、イエス様は自ら十字架へと歩んでいってくださいました。
その使命を全うするため、天の強力な軍隊をもって、自分に敵対する者を打ち倒すことを私はしない、とイエス様はおっしゃるのです。

 なぜなら、わたしたち人間が本当に悔い改め(神のもとに立ち返り)、神の愛を知り、確かな希望によって生かされる道は、主イエス・キリストの十字架による恵み以外にはないからです。
  イエス様の十字架の上で示された神の限りない愛、今も御言葉を通してわたしたち語られる神の御言葉、それらこそが私たちを本当に導き、わたしたちを変え、わたしたちに真の希望と喜びを与えるのです。
 受難週の今週、イエス様が耐え忍ばれた苦しみ、イエス様がお受けになった敵意や嘲りに、わたしたちは思いを寄せて、それらすべてに打ち勝たれた主の十字架を見上げ、心からの感謝を主なる神にお捧げしましょう。