2023年5月27日土曜日

2023年5月28日 主日ペンテコステ礼拝


招詞  箴言1章23節
賛美  新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
主の晩餐
献金
聖書  使徒言行録13章42~52節
祈祷
宣教 「喜びと聖霊に満たされて」
https://youtu.be/lSmRaAVsCxU
祈祷
賛美  新生讃美歌363番 キリスト教会の主よ
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷

 わたしたちはどのような思いと願いを持って、教会の集会(礼拝)に集まっているでしょうか?それは、キリストを主と告白しているキリスト者であるか、またはそうではないかによっても、その理由は違うと思います。
 またクリスチャンであっても、それぞれの心の中の思いと願いを細かく探れば、その思いは、やはり皆違うでしょう。
 しかし、私たちがキリスト教会に集まるその目的には共通したものがあります。
 私たちが教会に集まる目的は、礼拝自体にあります。主なる神(イエス・キリストの神)を礼拝すること~それが私たちが教会に集まる最初の(そしてそれが全てと言ってよい)目的です。

 唯一の神を、神の御言葉である聖書の御言葉を聞きつつ礼拝する~それが私たちが教会に集まる目的であり、そのように神を礼拝することはわたしたちが生きる目的そのものでもあります。
 聖書は、人間は(地上にあるすべてのものは)神によって造られたもの、被造物であると伝えます。
神によって造られた私たち人間は、創造主である神、永遠なる神との関係の中に生きてこそ、もっとも幸福で充実した幸いな生き方をすることができます。
 旧約聖書の『コヘレトの言葉(伝道の書)』Ecclesiastesの3章11節に次のように記されています。

 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

 造られたもので永遠であるものはありません。しかし限りがあり欠点もあるわたしたちが、永遠を慕い求める心を持つことができるように、神は私たちを創造してくださったと聖書は言うのです。
 永遠なるものを求めて、私たちの心と思いはさ迷います。何か自分を完全に満足させてくれるもの、渇いた心や空虚な心を満たしてくれるもの(永遠のもの)を私たちは求めるのです。
 私たちが求めてやまないその永遠は、イエス・キリストというお方によって、私たちの前にはっきりと示され、私たちに与えられました。

 今イエス・キリストは、目に見える形ではおられませんが、聖書の御言葉を通して、そして神の霊である聖霊によって、今でも私たちと共におられます。
聖書の御言葉は、わたしたちが神の永遠の中へと迎え入れ、招かれていること、永遠の命を与えられていることを私たちに伝えます。

イエス様は次のように言われました。
 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ5:24)
 イエス様のお言葉を聞き、イエス様を世にお遣わしになったお方(父なる神)を信じる者は、永遠の命を得ることができ、裁かれることなく(滅びることなく)死から命へ移っている、とイエス様が約束(あるいは保証)してくださっているのです。
永遠なる神が私たちと共にいてくださる~その神の御言葉を頂いて神を賛美し、礼拝することが、私たちが教会に集まる目的(生きる目的)です。
 
今日はキリスト教会で、ペンテコステ(聖霊降臨)と言われる出来事を記念するペンテコステ礼拝です。
キリスト教では三位一体の神を私たちは信じています。三位一体という言葉はクリスチャンでない方もお聞きになったことがあると思います。
三位一体の教えは、とても分かりにくいものでもあります。キリスト者であっても、牧師であっても(少なくとも私には)完全に理解することができない教理です。
しかし三位一体は、キリスト教信仰にとって非常に大切なものであり、根本的な教えです。
聖書の伝える神は世界の造り主であり創造主である父なる神です。そして私たちの罪の赦しのために地上に人として生まれて来られ、十字架の上で死なれた子なる神イエス・キリストがおられます。

そして、霊として私たちの心の中に入ってきてくださり、神の存在と力について今も私たちに確信をさせてくださる霊なる神=聖霊なる神がおられます。
 それは別々の神が三人おられるというのではありません。父、子、聖霊なる神が三つでありながら一つの(唯一の)神なのです。理屈や理論では説明のつかないことですが、三位一体の神こそが聖書が伝える神です。
 父なる神、そしてイエス・キリストが今の私たちには目で見ることができないように、霊なる神である聖霊も「これが聖霊です」言って、見えるようなお姿では私たちと共におられません。
 しかし、キリストを主と信じ、こうして教会に集まり、語られて分かち合われる聖書の御言葉を通して私たちが「神は確かに私たちと共におられ、私たちを守り導いて下さっている」と信じられるのならば、それは聖霊がおられる証拠です。

そしてイエス・キリストによって示された神は、御自分の全てを献げて私たちを愛してくださった神です。
ですから私たちが教会に集まり、信徒同士が神の愛によって互いに愛し合う(お互いを大切に、尊く思う)ことができるのならば、それは紛れもなく聖霊が私たちと共におられる証拠であると私は信じます。
逆に言えば、もし愛がないならば、そこには聖霊はおられない、と言うべきでしょう。
聖霊は、わたしたちが謙虚に求めさえすれば、きっと豊かに与えられます。聖霊に豊かに働いていただき、愛の溢れる教会の群れに私たちはなりたいと願います。

今日の聖書の箇所は新約聖書の『使徒言行録』という書の第13章の箇所です。使徒言行録は、イエス・キリストが死んで復活し、天に昇られた後、聖霊を受けた弟子たちがイエス様の教えと福音を各地に伝道していく様子が描かれています。
キリスト教はユダヤ教を母体として生まれました。そしてユダヤ教からキリスト教への変化の中で最も大きなものは、その信仰がユダヤ人の枠を超えて多くの外国人(異邦人)たちへも伝えられたことです。
それまでは「神の救いはユダヤ人だけに与えられた」「神はユダヤ人だけを特別にお選びになった」と信じられていました。

しかし“神はイエス・キリストを世に遣わして、キリストを信じる者ならば、国や身分、性別などに一切かかわらず、皆救われる”という画期的な教えが、ユダヤの枠を超えて広く世界に伝えられるようになりました。
そのような、いわゆる「世界伝道」が始まったのも、聖霊の導きによります。ですからキリスト教信仰にとって、聖霊は決定的に重要な導きを人に与えたと言えます。
今日の箇所は、パウロとバルナバというキリスト教の初期の頃の伝道者が、ピシディア州のアンティオキアという都市(現在のトルコの中にあります)で、人々に伝道をした場面です。

 パウロとバルナバは、安息日にユダヤ教の会堂に入って行きました。そこでパウロが立ち上がり、聖書の話をし始めました。
パウロはエジプトでの奴隷生活から神がイスラエルの民を救い出した時の物語(出エジプト)から語り始めました。
それから、エジプトを出たイスラエルの民たちが、神が彼らに約束してくださったカナンの地に入り、そこで自分たちの国を作ったこともパウロは語ります。
ダビデ王が生まれてユダヤの国を治めたこともパウロは語りました。そこまでは、ユダヤ人たちには馴染みのある話であったでしょう。
しかし時代が過ぎてイエス・キリストが現れ、キリストが何の罪もないにも関わらず、十字架にかけられ死んだこと、そしてキリストが死から復活したことを彼は語ります。

今日の前の箇所ですが、使途言行録13章37節~39節に次のように書かれています。

37しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。
38だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
39信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

 それまでは、人はモーセに与えられた神の律法を守ることによって、すなわち人の行いによって救われ義とされる(神の前に正しいとされる)と信じられていました。
 しかし人は行いによって(自分の力によっては)は決して救われない、人が何かをすることでその罪が赦されることは決してないとパウロはここで人々に伝えたのです。
 人が罪赦され、神の前に義とされる(正しいとされる)のは、死んで復活したイエス・キリストを信じることによるのだ、と言う新しい教えをパウロは人々に伝えました。それは全く新しい救いの道です。
 すると人々は、パウロとバルナバが会堂を出る時に「次の安息日にも同じことを(このことを)話してくれるようにと頼んだ」と今日の箇所の初めの42節に書かれています。
 神による救い、イエス・キリストによる罪の赦しを聞いた人々は、「その話をもう一度してくれ」とパウロたちに頼んだのです。

 きっとそれを聞いた人々には、「この言葉こそ、わたしたちがいつも繰り返し聞かなくてはならない神の言葉だ」ということが分かったのです。
 ですから彼らは、「何かまた別の新しい話をしてほしい」と言ったのではなく、「その話をもう一度次もして欲しい。なぜならそれこそが神の言葉であり、私たちがいつも聞くべき言葉であるから」と言ったのです。
 今の私たちにも、私たちが常に聞くべき言葉は、同じ言葉です。それは神の言葉です。
 神の言葉、イエス・キリストの御言葉を私たちはいつも繰り返し聖霊の導きを頂きながら聞くのです。

いつもキリストの言葉が聖霊によって豊かに分かち合われるように、私たちがキリストの言葉を正しく聴くことができるように、私たちは祈りを合わせたいと願います。
聖霊を頂くときには、私たちは試練や困難の中にあっても、前に進んで生きていく力が与えられます。
 実際パウロとバルナバたちは、今日の箇所で、ユダヤ人たちからのねたみを買って、迫害をされ、その地方を追いだされてしまいました。

そしてパウロとバルナバは別の都市へ行かねばならなくなりました。
しかし、今日の最後の節52節には次のように書かれています。
52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 パウロとバルナバは、人々からの反対と迫害を受けて、苦しい思い、悲しい思い、あるいは挫折感をもってアンティオキアを去って行ったのでしょう。
 しかし主の御言葉が語られたその都市では、新しく主を信じる人が確かに起こされて、彼らは新しい主の弟子として“喜びと聖霊に満たされた”のです。
 み言葉が語られた所で、信仰者は確かに起こされて、キリストの弟子として喜びと聖霊に満たされる、という新しい命を人々は頂いた、ということです。
 私たちの信仰生活も、苦しいことや人からの反対にあったりすることも多いかもしれません。そんな時は、私たちはお互いに励まし合いながら、信仰生活を共に送って行こうではありませんか。
そしてたとえ私たちの目には、挫折であり失敗だと思えることであっても、苦しいことでもあっても、そこに聖霊が働いていてくださっているのであれば、そこには大きな喜びがあり、そして聖霊が、わたしたちを満たしてくださるのです。
聖霊の導き、聖霊の満たしを切に求めて、信仰の道を私たちは歩んでいきたいと願います。