2023年6月3日土曜日

2023年6月4日 主日礼拝

招詞 申命記8章5節
賛美 新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
祈りの時
献金
聖書  ルカによる福音書2章41~52節
祈祷
宣教 「ご自分の父の家におられるイエス様」
https://youtu.be/fdMAosbZCEg
祈祷
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 676番
祝祷

 今日の聖書箇所には、イエス様が12歳の時に起こった、ある出来事が書かれています。
聖書の中の福音書と言われる書簡(4つあります:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)には、神の子イエス・キリストの誕生の記事、そしてイエス様が成人してから神の国を人々に伝え始めた伝道活動の数々が記されています。
 福音書にはまた、イエス様が最後は捕らえられて、十字架にかけられて死んだこと、そして復活したことが書かれています。
しかし福音書の中に、イエス様の少年時代の話というのは、じつは今日の箇所にしか記されていません。そういう意味で、今日の聖書箇所は、イエス様の少年時代について伝える貴重な記事であるとも言えます。
 今日の箇所の前の箇所は、イエス様の両親のヨセフとマリアが、イエス様を神殿で主に献げること(その儀式)のためにエルサレムの神殿へ連れて来る、という場面でした。

 イエス様が生まれてから、幼年時代、少年時代、そして青年時代を過ごす間には、私たち誰もがそうであるように、きっと色々なことがあったはずです。
しかし福音書は、イエス様の少年時代については、今日の箇所が伝える以上のことは何も伝えていません。なぜイエス様の青少年の時代について、これ以外には何も伝えられていないのか、その理由はわたしたちには分かりません。
 しかし、今日のこの短い記事からも、少年だった頃のイエス様とイエス様の両親であるヨセフとマリアを中心とした、神の豊かなメッセージを私たちは聞くことができます。この箇所から伝えられる神のメッセー

今日の箇所は次の一文で始まります。
「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
イエス様の両親であるヨセフとマリアが、イエス様が生まれてから毎年、過越祭(すぎこしさい)の時には、ガリラヤのナザレから都のエルサレムにある神殿まで旅をしていた、というのです。
過越祭は、かつて(イエス様の時代からは千数百年前)、エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民たちがモーセに率いられてエジプトを脱出した出来事を記念するお祭りです。
その時のエジプト王のファラオがイスラエルの民たちがエジプトを出て行くことを頑なに拒絶したため、主なる神はいくつかの災いをエジプト中に降らせました。
しかし最後の災いが(人々と家畜の初子が死ぬという災い)イスラエルの家々だけは通り過ぎて行きました(過越し pass over)。それを主なる神が自分たちを救って下さった出来事として、イスラエルの民たちが記念して祝うようになりました。(そのように神の律法によって定められました)

 自分たちの祖先を救った、その恵みの出来事を忘れないため、イスラエルの民たちは過越の祭りを毎年祝い続けました(現在でも、ユダヤ教徒にとっては、過越祭は大変重要な祝祭です)。
ヨセフとマリアも、毎年過越祭に息子のイエス様を連れてエルサレムへ行くことで、エジプトでの奴隷生活から救われた、その救いの出来事(神の恵みの出来事)の延長に自分たちの命も生かされていることを、息子のイエス様にも教えたのだと思います。
 神の恵みによって今の自分たちも生かされている~毎年のエルサレムへの巡礼の旅を通して、イエス様もそのことを学ばれたのでしょう。
幼年、少年時代のイエス様も、毎年両親についてエルサレムへ旅をして過越祭を祝い続けることで、(そのような地道な信仰生活の繰り返しによって)、神の恵みを学ぶという過程を、イエス様も幼いころに経験なさったということです。
イエス様の青少年時代の出来事は、聖書の中にはこの箇所しか残されていませんが、後に(30歳ぐらいから)伝道活動をお始めになるイエス様が、幼いころから両親や、御自分が属する共同体から、後の活動のための訓練をお受けになっていたといってよいと私は思います。

今クリスチャンは過越祭を祝うことはしません。わたしたちにとっての究極の恵み、私たちの罪の赦しのためにご自身を献げられたイエス・キリストの恵みをこそ、私たちは感謝してお祝いするからです。
私たちはイエス様の誕生を祝うクリスマスや、復活をお祝いする復活祭(イースター)、神の聖霊が弟子たちに降って教会が始まった出来事を記念するペンテコステ(先週5/28でした)等、特別な礼拝を毎年祝います。
しかし私たちはそのような特別な礼拝だけでなく、毎週日曜日(キリストの復活した日)に、こうして礼拝を守ること(守り続けること)で、私たちは神の恵みをいつも忘れずに、神に感謝をささげ続けます。
私たちが主日礼拝を中心にした信仰生活を、誠実に心を込めて、地道にささげ続けることは、信仰を新たに求めて教会に来ておられる方や、後に続く世代(こども達)への一番の信仰の訓練にもなる、ということを私たちは、今日の箇所からも教えられます。
先週の礼拝宣教でお話しましたように、礼拝それ自体が私たちが教会へ来る一番の目的ですが、私たちの地道で誠実な信仰生活が、私たち自身や次世代への信仰訓練にもなることを私たちは覚えたいと願います。

 今日の聖書の箇所の場面で、祭りの期間が終わって、皆がガリラヤへの帰り道に着いたとき、なんと少年のイエス様はエルサレムに残っていました。そして両親はそれに気づかず、道連れ(旅の仲間たち)の中にいるものと思って一日行ってしまったのです。
「息子はもう12歳だし(ユダヤ教では、13歳で信仰的な“成人”と見なされるそうです)、同じ集団のどこかにちゃんといるだろう」とヨセフとマリアは思ったようです。
 この時ヨセフとマリアは、かなりの大人数でエルサレムまでの旅をしていたようです。
当時の旅は、盗賊などの被害から身を守るため、大きな集団で行うほうが安全だったのです。
百数十キロを基本的に徒歩で行く旅ですから、大きな集団で、お互いに助け合っていくことで、当時の人々はその長い旅を乗り切っていたのでしょう。
ヨセフとマリア、そしてイエス様がその時、そのような集団(同じ目的を持った集団)でエルサレムの神殿への旅、そこで過越祭を祝うための旅をしていたというシーンは、わたしたちの信仰が他者と共に歩むものであることを思い起こさせます。
 私たちは信仰の旅路を一人で歩むことはしません(できません)。お互いに助け合いながら、共同体として信仰を私たちは共に歩むのです。

 誰かが倒れそうになれば誰かがその人を助け、また助けられたその人が次の時には別の人を助け、そのように協力し合う巡礼の旅は、私たちの信仰の姿そのものであると私は思います。 
 信仰の仲間、信仰の旅路を共に歩み助け合うことができる信仰の家族が与えられている幸いを私たちは感謝したいと思いますし、信仰の旅路を共に歩む仲間が、一人でも多く与えられ、加えられますことを私たちは祈り求めたいと思います。
 ところが、一日経って、親類や知人の間を捜しまわってもイエス様が見つからなかったので、マリアとヨセフはエルサレムまで引き返しました。彼らはとても心配していたでしょう。
 両親(マリアとヨセフ)は、息子のイエス様が神殿の境内で学者たちの真ん中に座って、話しを聞いたり、質問したりしておられるのを見つけました(46節)

 イエス様は神様の子ですから、人間から何かを教えてもらう必要などなかったのではないでしょうか。神が人から何かを教えてもらう必要は本来ありません。しかし、人としてイエス様は私たちと全く同じように生きられたのです。
イエス様は「生まれつき罪がない」という点以外は、全く普通の人間と同じように過ごされ、普通の人間と同じように、生まれてから保護者の養育を受けて、教育を受け、そして学ぶという成長過程も、ご経験なさったのです。
イエス様はそこで学者たちの真ん中に座っておられましたが、その姿勢は謙虚でした。イエス様は、学者たちの話を聞いて、そしてイエス様は彼らに質問をしておられたのです。
イエス様は彼らから教えを受け、また彼らと対話していたのです。
私たちは、イエス様のその謙虚な姿勢に驚かされます。自らを低くして、他者の話に耳を傾け、また分からないことは相手に質問をし、教えを乞う。

そのような対話の姿勢が、今こそ私たちにも必要なのではないでしょうか。私たちは自分以外の誰からでも学ぶことができるし、学ぶべきなのです。
 新約聖書の『フィリピの信徒への手紙』2章3節に「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」と書かれています。それは今日の箇所で、イエス様が12歳にして既に実践しておられる姿です。

 信仰の旅路を共に歩む私たちが、そのようにお互いから学ぶ、相手の話に心の耳を傾けるという姿勢、そんな関係性を信仰によって築いていきたいと私たちは願います。
 49節のイエス様のお言葉を見てみましょう。「なぜこんなことをしてくれたのか。お父さんもわたしも心配して捜していた」と言った母マリアにイエス様がお答えになったお言葉です。
「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
 イエス様は神の子ですから、“わたしが父の家(神殿)にいることは当たり前のことです”とイエス様ご自身が言ったのです。
しかし、イエス様が神の子であること、どのような使命を負ったお方であるのかは、詳しくはこの時には両親であるヨセフとマリアにも分かっていませんでした。
 ですから当然、50節に書かれているように、彼らはイエス様の言葉の意味が分かりませんでした。しかし今の私たちは、イエス様のそのお言葉から、イエス様と天の父なる神が一体であるということを知ることができます。

 人々から学ぼうとする謙虚さ、そして“私は天の父なる神と一緒にいる”という絶対の安心感と大胆さが、そこには同時にあるということです。
私たちもそのように、信仰による謙虚さと、そして“天の父なる神、御子イエス様、そして神の霊である聖霊が私たちと共にいる”という絶対の安心感と大胆さ(勇敢さ)を同時に持つことができるのです。
私たちは自分が本当は無知であること、人から色々と教えてもらわねばならないことを恥じる必要はありません。むしろそれを認める事の出来ない方が恥だと、聖書は教えてます。
 互いに支え合い、そして教え合う、そのような者として、私たちは皆神によって、愛と目的をもって創造された者なのです。
そして私たちは常に学び、成長していくものであり、この地上で生きている限り、その過程には終わりがないのです。
ですから私たちは、神が共におられるという安心感、そして自らを低くし他者から学ぶという謙虚さ、そして神が与えて下さる勇気と力を同時に持って、信仰の旅路を共に歩んでいこうではありませんか。