2023年6月17日土曜日

2023年6月18日 主日礼拝

招詞  ヘブライ人への手紙11章8節
賛美  新生讃美歌55番 父の神よ 夜明けの朝
主の祈り
献金
聖書  出エジプト記1章1~14節
祈祷
宣教  「ヤコブの子孫たち」
https://youtu.be/nLzBfM6QVzM
祈祷
賛美  新生讃美歌134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷


 今日私たちに与えられた聖書の箇所は、『出エジプト記』の冒頭(最初)の部分です。これから私たちは礼拝のメッセージとして、大体一ヶ月に一回の割合で、この『出エジプト記』を読みながら、神のメッセージを聞いてまいります。
わたしたちは今まで『創世記』の各章から、神のメッセージを聞いてきました。
創世記は「初めに、神は天地を創造された」という一文で始まっています。
「初めに、神は天地を創造された」~この言葉は、読めば読むほど、考えれば考えるほど、意味の深い圧倒的な言葉でありメッセージです。
“聖書を最初に開いた時、その初めの言葉が「初めに、神は天地を創造された」という一文であったことに、わたしはものすごい衝撃を受けた”~そのように、ある牧師が言っていたのを、わたしは聞いたことがあります。

聖書はその冒頭から、神が天地を(わたしたちの世界の全てのものを)お造りになった創造主であることを宣言します。すべては神がお始めになった、ということです。
神はこの世界の、宇宙のすべてをお造りになり、世界や宇宙の広大でまた複雑な構造も、そしてありとあらゆる生物(動物も植物も)の体の緻密な構造や機能も、すべてをデザインしてお造りになったのです。
世界や宇宙の背後にそのような存在(至高の存在)があるということは、何か特定の宗教を信じない人でもあっても、認める人は多いのではないかと私は思います。
 しかし聖書が伝える神は、そのように全てをお造りになった創造主が、わたしたち人間と人格的な関わり(関係性)を持とうとしてくださっている、と聖書は伝えます。
 聖書の神は、御自身をわたしたちに知らせてくださり、神がわたしたちを愛し、わたしたちも神を信頼し神を愛するという関係へと招いてくださるお方なのです。

 特に旧約聖書、創世記や出エジプト記の物語の中では、主なる神は直接人に語りかけたり、導いたりします。
 アブラハム(元の名前はアブラム)は、創世記12章で、主から「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」と言われて、75歳で彼の故郷を旅立ちました。
 今、わたしたちには、そのように神の声がはっきりと聞こえるということは、あまりないことであると思いますが、それでも祈りと聖書の御言葉を通して、そして神の霊である聖霊の導きによって、わたしたちは神の声・神の御心を知ろうとします。
わたしたちがこうして集まって礼拝する時には、「今、この時」わたしたちが共に聞くべき神の声が語られるようにと、説教者である牧師は常に祈って宣教の準備をします。ぜひ、皆様はそのために祈ってくださるようにと、わたしは改めて皆さまにお願いしたいと思います。

そして75歳のアブラハムが、神の声を聞いて、行き先も定かではないままに、生まれ故郷を旅立つ決意ができたような、勇気と希望とが、わたしたちにも神の言葉(聖書の言葉)を通して与えられるようにと願います。
創世記は、神の天地創造の物語、そしてアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフらの家族を中心とした物語によって展開されます。最後は、ヤコブの息子のヨセフの死によって、創世記は終わっています。
 その創世記に続く物語が、『出エジプト記』です。その1章1節に次ように書かれています。

1ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。
創世記の最後では、ヤコブの一家がエジプトへと移り住みます。ヤコブの息子の一人のヨセフは、兄たちに恨まれて(父のヤコブがヨセフを特別にかわいがったりしたので)、エジプトへ売られてしまいました。
ヨセフはエジプトで出世をし、そして当時その地域一帯で発生した飢饉のため、ヤコブとヤコブの息子たちはエジプトへ移り住むことになりました。
ファラオ(エジプト王)は、ヨセフの父であるヤコブとその息子たち(ヨセフの兄弟たち)が、エジプトの国の最も良い土地に住むことを許可しました(創世記47章6節)。
ファラオが、ヤコブの一族に、エジプトの国の最も良い土地に住む事を許可したのは、ファラオの寛大さ、あるいはファラオに次ぐ地位の高官としてヨセフがファラオから得ていた信頼などが理由だったと思われます。

エジプト人とイスラエル人という異なる民族でも、お互いに言葉を交わし、交わることで互いを理解し合い、そこから絆と信頼が生まれたのでしょう。
 ヤコブの息子たちや、ヨセフたち、彼ら最初にエジプトに移り住んだ世代が皆死んで、新しい世代へと時代が移りました。

今日の7節によれば、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れました。
 イスラエルの人々の数がそれほど増えたというのは、それ以前に神によって告げられていたことの成就でもありました。神はアブラハムに「あなたの子孫は、星の数ほどに多くなる」と告げていたのです(創世記15章5節)
 移り住んだ異国で新しい世代が数を増して強くなることは、その人たちにとってはよいことです。
しかし、あまりに数が増えて強くなったということが、その時のエジプトの支配者~ヨセフのことを知らない新しい王~にとっては、大きな心配・懸念となりました。

9~10節で、エジプトの王は次のように言っています。
「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
10抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」

「彼らはあまりに数が増えてわたしたちにとって脅威だ」、「戦争が起きれば、彼らは敵側につくかもしれない」~これらはいずれも実際には起きていないことです。それは、一人の王によるただの想像です。
 わたしは、そのようにエジプトの王が想像した理由(“イスラエル人”に脅威を感じた理由)は、やはり個人的な繋がりと対話の欠如であったと思います。
「イスラエル人という民」と言っても、一人一人は皆違った人たちです。強い人もいれば、そうでない人もいたでしょう。
しかし、そういったひとり一人を知ることなく、ただ「イスラエル人という民」として、エジプト王の頭の中では、「彼らは脅威だ」というイメージが先行してしまったのです。
イスラエル人という民~このような言い方で、一人一人の顔と存在が見えなくなってしまい、そこからいわゆるレッテル張り、ある集団や民族、国のイメージを決めつけるということが起きたのです。
よく一般的に「日本人は~こういう風だ」とか「韓国人は~だ」という言い方がなされます。確かに一般的に観察、表現される国民性というものはあるのでしょうが、それらは絶対ではありません。

見方や考え方はその時々によって、変化するものです。わたしたち人間はひとり一人みんな違うのですから、ある地域や国の人たちを一般化したイメージでとらえることには、わたしたちは慎重でなければなりません。
聖書は、わたしたちに、人を(他人を)どのような視点で見るようにと、教えているでしょうか。『創世記』の初めの記事を見れば、「神はご自分にかたどって人を創造された」と書かれています(創世記1章27節a)
「神はご自分にかたどって(ご自分のイメージで)人間を創造された」と聖書は言っているのです。聖書の言葉を信じる信仰者は、この見方で他者を見なくてはなりません。
「ご自分にかたどって」が正確にどのようなことを意味するのか、それは完全にはわたしたちには分かりませんが、少なくとも、神が愛と目的をもって人をつくられた~そのような人として他者を見ることがわたしたちには求められています。

神がご自分にかたどって、ご自分のイメージでお造りになり、そして祝福してくださった存在~わたしたちはそのような者なのです。
 その神は、新約聖書の時代、イエス・キリストとして世にお生まれになり、この世界に人として生きられました。イエス様はご自分の全存在、そのお命と引き換えに、真の命をわたしたちに与えてくださいました。
 今こそわたしたちは、自分自身の存在と価値、そして自分以外の他者の存在と価値とを、イエス・キリストの十字架を通して見て確認し、それを信じるという決意をすることを促されます。
 イエス・キリストを通して私たちが自分と他者を見るとき、わたしたちはその人の中に、どこの国や地域の人であるのか、あるいはどの国や民族の人であるのか、などとは関係のない、神によって愛され尊いとされた存在を認めることができるでしょう。
 キリストを通して、キリストを中心にして、互いを受け入れ認め合う、そのような信仰の共同体に私たちはなっていきたいと願います。
 今日の聖書箇所に戻りますと、“エジプト人”は“イスラエルの人々”に強制労働、重労働を課して虐待しました(11節)。「虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し」ました(12節)。
 神の意志に反して、エジプト人たちがどれほどイスラエルの民を圧迫しようとも、イスラエルの民の拡がりを抑えることはできなかったのです。
 わたしたちの信仰の道において、神に願い、神に信頼し、そして私たちの最善をささげてなそうと決意するならば、そしてそれが神の御心であるならば、この世のどんな力も私たちを挫かせ、弱めるものはないのです。

 たとえ今は苦しまなくてはならないとしても、神がわたしたちに与えてくださったイエス・キリストの愛を壊すようなもの、神のご計画を挫くようないかなる力も、この世界には存在しません。
 そのような希望、神のご愛を信仰を通して私たちは頂いています。神の力強い御手にわたしたちは守り導かれています。
そして神を信じる信仰はイエス・キリストを通して、わたしたちひとり一人に与えられているのです。そのことを改めて覚えて感謝をし、今週の日々も信仰によって歩んでいきたいと願います。