2023年6月24日土曜日

2023年6月25日 主日礼拝

招詞 詩編31編25節
賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
主の晩餐
献金
神学校週間を覚えて
聖書 コリントの信徒への手紙一 16章13~24節
祈祷
宣教 「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」
https://youtu.be/a3niIYcFnu0
祈祷
賛美 新生讃美歌 455番 われに来よと主はいま
頌栄 新生讃美歌 676番 
祝祷

今日わたしたちに与えられた聖書箇所は、『コリントの信徒への手紙一』の最後の部分です。伝道者パウロが書いたこの手紙の終わりの部分、結びの箇所を、今日私たちは分かち合います。
ギリシアのコリントという都市にあった教会には、色々な問題がありました。まず第一章で取り上げられていたのは、コリント教会の中で起きていた“分裂”についてでした。
1コリント1章10節以降の箇所で、コリント教会の人々が「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と言い合って、分派が生じていた様子が描かれていました。
それに対して、この手紙を書いたパウロは1章13節で、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼(バプテスマ)を受けたのですか」と言いました。

その言葉から判断しますと、コリント教会の信徒たちが、どの指導者につくのかというリーダーシップの問題においても混乱していたその原因は、やはり彼らが救いの根源であるイエス・キリストの十字架を見失っていたことであったと思います。
「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」という言葉からは、コリント教会の中には、パウロをまるで神であるかのように崇めようとしていた人さえいた、そんな可能性も読み取ることができます。
それにたいしてパウロは、「十字架にかかって死に、その死によってわたしたちの罪を赦してくださったお方は、イエス・キリストだ。それはイエス・キリストだけだ。キリスト者はイエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受けたのだ」ということをここで強調して人々に思い起こさせようとしています。
今日私たちキリスト者は、今一度、わたしたちはキリストの十字架によって罪赦され、そのお方の名、更に言えば、父なる神、子なる神、聖霊なる神の御名によってバプテスマを授けていただいた、ということを思い起こしたいと思います。

そしてまたキリスト者(クリスチャン)でないお方も、教会ではイエス・キリストの名によって私たちは集まっている(集められている)、そして誰もがキリストを主と告白してバプテスマを受けるように招かれているということを知って頂きたいと思います。
弱いわたしたちですから、キリスト以外の何かに心奪われてしまうこともあるのですが、教会でわたしたちは、キリストのみに思いを集中しよう、キリスト中心の生き方をしようと努力していることを、知っていただきたいと願います。
 わたしも牧師として今まで何人かの方のバプテスマ(洗礼)式を執り行わせて頂きました。しかしそれはわたし自身の権威や力によってなされたのでは全くありません。
 神の霊なる聖霊のお働きによって、一人の人に「イエス・キリストは主」と信じる信仰が与えられます。そしてそのお方が、その信仰を公に告白して、キリストの体である教会の群れに加わりたい、という希望を表明します。
 その信仰告白を、既に教会の群れに加わっている私たちが聴いて、その信仰内容を確認、承認して、わたしたちはキリストのご命令により、三位一体の神の名によって、教会が主体となって(いわば、キリストの代理として)、その新たな信仰者にバプテスマを授けます
 ですから洗礼(バプテスマ)は、人間的な力や業によって起こされることではなく、あくまで神様が与えて下さる信仰を、わたしたちが喜びをもって確認して受け止める、というものなのです。
 一度信仰を決断して洗礼(バプテスマ)を受けても、それでその人の信仰が完了したということではありません。
 むしろバプテスマは信仰の始まりです。そこから、教会につながり神の言葉を聞き続け、信仰を成長させるという、この地上では終わりのない信仰生活がスタートします。
 ですから私たちは、いつも神の体である教会につながり続け、神の言葉である聖書の言葉を聞き続けることによって、信仰生活を送っていくのです。

今日の箇所(1コリント16章)の16章13節には「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかりと立ちなさい。雄々しく生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」と書かれています。
”目を覚ましていなさい”~この言葉は、イエス様がマタイ福音書24章42節で同じ言葉を使って弟子たちを戒めています。イエス様は「だから目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたたちには分からないからである」とおっしゃいました。
それは、イエス・キリストを主と信じる信仰、その信仰の目をいつも覚ましていなさい、ということです。
「家の主人がいつ帰ってくるか分からないから、目を覚まして準備をしていなさい」という譬えからは、“主人に叱られるのが怖いから、ちゃんと準備していよう”という消極的(脅迫的?)な態度がイメージされるかもしれません。

確かに、主が再び来られる日にわたしたちの生き方が神に裁かれる(どのように生きたのかが問われる)という緊張感は、信仰者にとって大切なものです。神の裁きをわたしたちは決して軽く考えてはなりません。
しかし、キリスト者には「主はいつもわたしたちと共にいてくださる」という信仰も与えられています。マタイ福音書は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の言葉で終わっています。
そうであれば、キリスト者の生き方は「いつ主が戻って来られるのか分からず、その日を恐がって(戦々恐々と)待つ」ということにはならないはずです。
むしろ、わたしたちが問われるのは「いつも共にいてくださるイエス様の恵みの中で、あなたはどれほど喜んで信仰を生きたのか」ということが問われる、ということだと私は思います。
ですから私たちは信仰の目をしっかりと覚まして、いつもわたしたちと共にいてくださるイエス・キリストに目を注ぎ、イエス様の与えてくださっている恵みに目を留めて生きよう、と今日の箇所から励まされるのです。
信仰の目を見開いて、わたしたちといつも共にいて下さるイエス様と共に、安心して喜びの信仰生活を送っていこうではありませんか。

13節の中で続いて書かれている「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」、「雄々しく生きなさい」、また14節の「何事も愛を持って行いなさい」も、信仰の目によってイエス・キリストを見続け、キリストを信仰の中心に置くことによっていずれも可能になることです。
わたしたちの救いの根源はイエス・キリストの十字架であり、わたしたちの救いの確証と喜びはイエス・キリストの復活にあります。
その十字架と復活のキリストという土台の上に立つならば、わたしたちはしっかりと立ち続けることができます。
わたしたち自身の力ではなく、十字架と復活の力強いキリストの力がわたしたちを支えますから、わたしたちは揺らぐことがないのです。
キリストがわたしたちの心の中に住んでくださいますから、わたしたちは強く生きることができるのです。わたしたち自身の力により頼もうとする必要はもうないのです。

死んで復活したイエス・キリスト、それから天に昇られ今は聖霊として働かれるイエス・キリストの霊が、わたしたち信仰者の内に住んでくださるのですから、キリストにあって私たちは強く生きることができるのです。
キリストの強さとはすなわち、その限りの無い無条件の愛です。ご自分を十字架につけた人たちのことさえも天の父なる神に執り成して祈ってくださった、その限りのない愛です。
そのような愛は、わたしたち人間の中には決してありません。そのような愛は、神なるイエス・キリストから私たちは頂くしかないものです。
わたしたちは一度は(もしくは何度も)、自分自身の愛の無さを知らされ、失望(絶望)したことがあるのではないでしょうか。わたしたち自身の愛の無さは、イエス・キリストの真の愛によってのみ満たすことができます。
 逆に言えば、わたしたちは自分自身を完全にキリストに明け渡しさえすれば、キリストの愛がわたしたちを満たして下さり、わたしたちの生き方はキリストの愛を反映したものにきっと変えられるはずです。
 キリストの愛がわたしたちひとり一人、またわたしたちの教会を満たしてくださいますように、わたしたちは祈り求めていきたいと願います。

今日の15節以降で、ステファナの一家(15節)の人たちなどをパウロはコリント教会の信徒たちに紹介し、「彼らは良い働きをした人たちなので、彼らを重んじてほしい(18節)」と伝えています。
 19~20節では、諸教会の兄弟姉妹たちからの挨拶をコリント教会の信徒たちへ伝えています。20節には「すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています」と書かれています。
 パウロは色々な人たちを代表して、コリント教会の信徒たちへ、彼らからの愛の挨拶を届けているのです。ここでの挨拶の言葉の一つひとつに込められた気持ちを想像すると、人と人とを結び付けてくださる神の愛を私たちは、その(言葉と挨拶の)背後に感じることができると思います。

 22節では「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」という激しい表現も使われていますが、これも、「あなたがたに神の愛の中に留まってほしい」という、パウロの強く熱い願いの反映であると私は思います。
 この最後の部分の紹介や挨拶の部分からわたしが思わされたことは、“わたしたちキリスト者ひとり一人も、神の手紙のようなものである”ということです。
 「わたしたちは神(キリスト)の手紙」ということは、実はコリントの信徒への手紙二(2 Corinthians)の第3章にそのような表現が出てきます。その箇所から宣教します時に、ぜひまたそのことを深く考えたいと思います。
どういうことかと言いますと、神は世に神の愛を伝えるために、私たち信仰者を、いわば神ご自身の手紙としてこの世に送られた、とも言えるのです。
 わたしたちひとり一人は皆違いますから、色々な方法や表現で、わたしたちを通して神の愛が世に豊かに伝えられていくのでしょう。しかしその内容、神からの使信の内容は変わりません。
 変わらぬ神の愛、「わたしたちは(あなたは)愛されている」~この変わらぬ神のメッセージがわたしたちひとり一人を通して、そして私たちの教会を通して、世にますます豊かに伝えられていきますように、わたしたちは心から願い祈ろうではありませんか。