2023年6月10日土曜日

2023年6月11日 主日礼拝

招詞 出エジプト記13章21節
賛美 新生讃美歌 1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
献金
聖書 ルカによる福音書24章13~32節
祈祷
宣教『 熱く燃えていますか?』
*信徒宣教につき、本日音声データはありません
祈祷
賛美 新生讃美歌 363番 キリスト 教会の主よ
頌栄 新生讃美歌 676番
終祷

皆さん、おはようございます。
今年のペンテコステ(聖霊降臨祭)は5月28日にお祝いしました。もう2週間経ちましたけれど、今朝はもっと遡ってイエスさまが復活した日のことを振り返ってみたいと思います。
実は今日、聖書個所として取り上げたルカ福音書24章13~32節は私にとって昔から印象深い個所なんです。
何故かと申しますと、場面が劇場的でイエスキリスト復活の表現を叙情的に表されているように思うのです。
一人で勝手に感動に浸っているみたいですけど、この情景を描いた絵がありますので見てみましょう。

真ん中がイエス様ですね、そして両側のどちらか一人がクレオパという弟子です。
三日前に十字架の出来事があったことなど全く感じさせない情景でしょう、空は青いですし、小鳥のさえずりとかも聞こえてきそうな絵です。
さて、そのエマオという場所はエルサレムから60スタディオン離れた村と書かれています。1スタディオンは約185メートルということなので11kmくらいです。
エマオの場所がどこかというのは現在では正確にはわかっていません。
ただ、それが11kmくらいだとすれば別府から大分くらいの距離だと言えばわかりやすいですね。
さて、そのイエス様が復活された日が今日だとすると、3日まえの金曜日に十字架にかけられ、死んで墓に葬られたことになります。
イエスさまは”一昨日”縛られ、鞭打たれ、血を流し、ご自分の十字架を背負い、手と足に釘を刺し貫かれ、十字架にかけられ息を引き取られたのです。

三日前ならどんなに忘れやすい人でも十字架の出来事を忘れる人はいないでしょう。
多くの人の病気を癒し、メシヤと期待され多くの弟子、使徒と共に福音を宣べ伝えられたイエスさまが十字架で殺されたのですから従った弟子たちの落胆、失望、恐れ、不安はどれほどだったでしょう。たぶん空虚で暗い顔をしていたでしょうね。
そのような心情の中でこの二人の弟子が三日前のことを話しながらエマオへと歩いていたのです。
するとそこに復活されたイエスが現れ、後ろから近づいて一緒に歩き始めます。
そしてイエスが声を掛けます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」

二人は暗い顔をして立ち止まりました。
一昨日あった大きな事件のことを話しながら歩いていたのに、後からついてきたこの人は話を聞いて、それは何の話ですかと尋ねたんですね。
彼らは立ち止まってイエスを見て、(ただこの時はまだ二人の目が遮られていた。)二人のうちの一人クレオパが答えます。
「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、(みんな知ってるのに)あなただけはご存じなかったのですか。」
クレオパはこの時のイエスをよそからエルサレムに来た来訪者だと思っていたようですね。

イエスは尋ねます、「どんなことですか?」
彼らはイエスに答えます。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが、仲間の婦人たちが朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。
そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
(ここはリビングバイブルでは「ああ、どうしてそんなに、心が鈍いのですか。預言者たちが聖書に書いていることを信じられないのですか。...」となっていて、リビングバイブル聖書の方が言い方がこの場面にふさわしいですよね。)

そして、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書(現在の私たちにとっては旧約聖書)全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
さて、そうこうするうちにあたりも暗くなってきました。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

おそらく、この弟子二人がイエス様とともに福音の伝道をしていたときに、いろいろな場所で色んな人々と食事をされた時にイエス様がパンを取り讃美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らにお渡しになったという記憶が二人にイエス様であることを気づかせたのかもしれません。
そしてイエスだと認識した二人は、語り合いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と。

はい、ここが今日の宣教の中心です。

もう一度、三人が歩き始めた時の状況を私なりに再現してみましょう。
二人が三日前の出来事を話しながら歩いていました。
そこへ後ろからイエスさまが二人をあたかも見守るように近づいてきます。
そして「どうしてそんなに心が鈍いのか」と言いながらも、一緒に歩きながら聖書の預言者たちの話を説明しながら二人を勇気づけていきます。
沢山の聖書の個所がありますので時間の都合上ここでは1カ所だけにしますけど、イザヤ書53章全部です。長いですけれど読みたいと思います。

------ イザヤ書53章------
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。 彼は、子孫が末永く続くのを見る。 主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。 彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」
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いかがですか?
わたしはイザヤ書53章は涙なしでは読めませんので、最初は「皆さん、帰ってからゆっくり読んでください」って言うつもりだったのですが、ここを外したら餡子のないアンパンみたいなものですから頑張って読むことにしました。
さて、話は変わって現在です。
イエスさまは天に昇られて、代わりに私たちを助けるために聖霊を送ってくださいました。聖霊を通してイエスさまは生きて、私たちを支え、守り、導いて下さっています。私たちは助け手である聖霊を受ける準備が出来ているでしょうか。
さて、唐突ですが、ここでちょっと話題を変えてみましょう。皆さんはワイングラスの縁を水で濡らした指で軽く回るように擦っていくときれいな音が出る現象をご存じですか?
指がグラスの縁をこする時に出る小さな音がグラスに共鳴して大きな幻想的な音になるんですね。今日はグラスを持ってきましたので実験しましょう。

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いかがですか?素敵な音でしょう。
ひびの入ったグラスではこんな音は出ません。また、よく人を土の器にたとえて話されることが多いですけれど、同じように器が割れていたりひびが入っていたりするとやはり美しい音は出ません。
これらの割れた器、ひびの入った器を私たちキリスト者に例えるとどんなことが言えますか?
私は思います、これらの器は私たちの信仰を表しています。
そしてこの器に触れる指、優しく叩く棒は聖霊でありイエスさまです。
エマオへ向かう二人の弟子は後ろから来られたイエスさまに見守られ、また共に歩きながら励まされ、さらには先だって導いて行こうとされたようにみえます。
宿でイエス様と共に食事の席に着き、イエスさまがパンを取り、祝福して裂き、彼らに渡されたとき二人は初めてイエスさまに気がつきました。
最初はイエスさまに「ああ、心の鈍い者たち」と言われた二人でしたが、イエスさまに心を触れられて、共鳴して熱くなっていたのです。
聖霊との共鳴、共振は大きなパワーを持っています、だから心の中で燃えるのです。
ヨハネ福音書3章8節にあるように、聖霊は風のように自由気ままに私たちの周りを吹いていると言われます。
耳を澄まし、心を開いて聖霊を求めましょう。
私たちが聖霊の呼びかけに応えられるかどうかは、私たちが欠けのない、ひびのない器であるか、また純粋な良い器になろうとしているかどうかによると思います。
イエスさまに心燃やされたエマオへと歩いていた二人のように、いま私たちは日々の生活の中で聖霊の助けをいただき心燃えるキリスト者でありたいと願うものであります。また聖霊が私たちに働いていることをしっかりと信じることの出来る者となりたいと思います。