2023年7月15日土曜日

2023年7月16日 主日礼拝

招詞 使徒言行録5章31節
賛美 新生讃美歌 91番 恵みのひかりは
主の祈り
献金
聖句 出エジプト記1章15~22節
祈祷
宣教「神の恵みによって強くなる」
https://youtu.be/uBepXtu0spw
祈祷
賛美 新生讃美歌 552番 わたしが悩むときも
頌栄 新生讃美歌 671番 
祝祷 

 今日私たちに与えられた聖書の箇所は、旧約聖書『出エジプト記』の第一章の後半の部分です。今日の箇所では、エジプトの王と、二人のヘブライ人(イスラエル人)の助産婦が登場します。
  古代エジプト王国で強大な力を持った王と、エジプトの中で奴隷として抑圧されていた民族の中の二人の助産婦。この人たちにまつわる聖書の物語を通して、今日も神のメッセージを私たち共に聞いてまいりましょう。
 イスラエル人たちは、カナンの地を離れてエジプトで生活をするようになりました。移住した時の最初の世代(ヤコブと彼の子どもたちの世代)が死に絶えて、何世代も後の新しい世代のイスラエル人たちはその人数がとても多くなりました。
彼らの数があまりに増えたので、それを見たエジプトの王は「イスラエル人たちがこれ以上増えたら、戦争が起きた時に彼らは私たちの敵側につくかもしれない」と恐れて、イスラエル人たちを抑圧し、苛酷な労働を課して彼らの力を削ごうとしました。

イスラエル人たちの数が増えることを恐れて苛酷な労働を彼らに課したというのですから、まさに“イスラエル人たちが死に絶えるまで働かせようとした”ということだったのでしょう。しかし、そのようにすればするほどイスラエルの人々は増え広がりました。
イスラエル人たちが“増え広がった”(1章12節)ということは単に人の数が増したというだけではなく、“彼ら自身の信仰の成長と、主なる神に対する彼らの信頼が、試練を通して益々強められた”という意味もあるのではないかとわたしは思います。
試練、苦難は人の信仰を強めます。それが聖書の伝えることの一つです。試練、苦難が人を強めるということは、キリスト教以外の一般的な教えでも言われていることもしれません。
しかし聖書が伝える“試練は人を強くする”とは、試練、苦難を通して、人は神の愛を知らされる、だから人は強くなれる、ということです。
苦難の中にも共におられる主なる神を見いだし、その神を信頼することによってわたしたちは強められるからです。

新約聖書の『ヤコブの手紙』の1章12節(James 1:12)には次のように書かれています。
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

試練を耐え忍ぶとは、試練や苦難の中で“神がわたしを守り、神が共にいてくださる”ということを確信し、神へのそのような信頼を増す事によって神を愛するようにもなることです。
神の御手に守られ、神に支えられ助けられているという確信を通して、私たちは神への感謝と神への愛、そして“自分以外への他者への配慮、優しさ、思いやり、愛”をも持つことができるようになるのだと思います。
神の愛が、わたしたちの本当の強さの原動力です。本当の(真の)力の原動力である神の愛を、聖書が私たちに伝える神の言葉と教えを通して、そして祈りと聖霊の導きを通して、私たちは豊かに頂いていきたいと願います。
 エジプト王(ファラオ)は、苛酷な労働を課されてもイスラエルの人々の数が減るどころか、むしろ増えるということに、苛立ち怒ったのでしょう。

エジプト王は次のような命令を二人のヘブライ人の助産婦たちに出しました。
16節 (verse 16)
「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」

聡明な権力者(指導者)であれば、自分の思い通りにならないことで、怒るのではなく、自分自身の考えや思いが間違っていたのかもしれない、とその時気づいたでしょう。(少なくともその可能性に思い至ったでしょう)
しかし、エジプト王はその強大な権力に心の目をくらまされて、“自分が過ちを犯す”などとは考えられなかったのかもしれません。
「王である私のしようとすることは全て正しい」という錯覚、傲慢さに、その立場ゆえに彼は捕らわれてしまっていたのではないでしょうか。
しかし、そのように思ってしまう可能性は私たちにもあります。自分の思い通りにならないことは生きている間に沢山あると思います。自分の願いや思いが通じない、ということが、わたしたちにはよくあるでしょう。
そのような時に、自分自身の思いや考えを、一度冷静に振り返ってみて点検、反省、また他の人の意見をも求めたりしながら、よりよい方法を探し出す努力、自らの過ちに気づいたのならば、その過ちを正す勇気を私たちは持ちたいと思います。

苛酷な労働を課すことでは、ヘブライ人(イスラエル人の民族的な呼び方)たちの力を削ぐことができなかったので、生まれた瞬間に彼らの命を絶ってしまおうと、エジプト王は考えました。
「女の子ならば生かしておけ」という命令に、王の人間としてのかすかな良心が表されていると、考えることもできるでしょう。しかし「気に入らない者は無きものにしてしまいたい」と思う、人間の深い罪がここで表されています。
『出エジプト記』の前の、『創世記』では、神が最初にお造りになった人間であるアダムとエバの息子であったカインとアベルの間で、怒った兄のカインが弟アベルを殺してしまう悲劇が起きたことが記されています。
兄のカインが怒った理由は、神がアベルの献げ物には目を留められましたが、カインの献げ物には目を留められなかったからでした(創世記4章4~5節)。
神が弟アベルの献げ物に目を留められたのは、アベルは最上のものを神に献げましたが、カインの献げ物は神の前に最上と見なされるものではなかった、と考えられます。

しかしカインはそれに対して怒り、嫉妬や憤りの混ざった感情が高まって、ついに弟のアベルを殺してしまいました。
わたしたち人間の思いや感情が間違った方向へ向けられると、どれほど恐ろしい罪を犯すことができるのかという大変厳粛な警告が、その物語には込められています。
カインや、今日の箇所のエジプト王の姿から、わたしたちは私たち自身のもつ罪の性質に気づき、それを認めて神の赦しを願い、またそのような罪がイエス・キリストの十字架の贖いによって赦された、ということを思い起こし、心からの感謝をしたいと思います。
王に命じられた二人の助産婦は、王の言うことには従いませんでした。17節に次のように書かれています。

17助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。

彼女たち、二人の助産婦は、神を畏れていました。神を畏れるとはどういうことでしょうか?
イエス様は「人を恐れず、神を恐れなさい」と弟子たちに教えるために次のように言われました。

マタイ福音書10章28節 Matthew 10:28
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

“体を殺しても、魂を殺すことのできない者ども”とは、人間のことです。
今日の聖書箇所で言えばまさに、その強大な権力によって一民族を抹殺してしまおうという思いに駆られたエジプト王のような者でしょう。そのような者さえ恐れなくてよい、とイエス様は言うのです。
なぜなら、本当にわたしたちが恐れるべきお方、本当の意味で私たちの命の根本を支配しておられるお方、そうしようと思えば私たちの魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方は、主なる神のみだからです。
 そして聖書は、そのような権威を唯一お持ちの神ご自身が、イエス・キリストとなって世にお生まれになり、私たちが負わねばならない罪の罰を、御自身が負って十字架にかかり死んでくださったことを伝えます。
それが福音です。その福音を本当に信じ生きる時、わたしたちも、今日の箇所での助産婦たちのように、人を恐れず(その人がどれほど強大な力を持っていても)神を恐れる、という生き方ができるようになるのです。
人を恐れないとは、他人のことを考慮しない、とか他人のことを無視するということでは勿論ありません。むしろ人を畏れず、真の神を畏れるという信仰は、わたしたちをお互いに受け入れ合い、互いのことを配慮する者へと変えます。

 今日の箇所で、二人の助産婦がエジプト王に何と言ったのかをもう一度見てみましょう。
18節でエジプト王が「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。

そして19節で助産婦たちが次のように答えます。
「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

 助産婦たちのこの答えは、一見ユーモアさえも含んだ、何とも人を食ったような(人を馬鹿にしたような)答えにも聞こえます。
 しかし、助産婦たちのこの言葉は、その時神から与えられた知恵に基づいた言葉であり、また神の愛をも含んだ言葉であると、私には示されました。
 「ヘブライ人の女性はエジプト人への女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」~この言葉は、「人の命はすべて神の御手の中にある」ということを表しています。
 それは「人の生き死に、すなわち人の命は人間の手によって左右されるべきことではないのです。わたしたちの命は神によって造られ、神の御手のうちにあるのです」という信仰の表れです。

エジプト王は強大な権力を持ち、“自分がそう望んで命令さえすれば、一民族の抹殺さえ可能だと”恐ろしいほどに思い上がっていました。
人間が犯し得るそのような罪に対して、ヘブライ人の助産婦の言葉を通し、神は戒めの言葉を与えているのです。
忍耐と愛をもって、“人の命の尊さ”と“全ての人の命が神の御手によって守られている”ことを、ヘブライ人の助産婦たちの言葉を通して、神がエジプト王に理解させようとしているのです。
 この時、もしこの二人の助産婦がエジプト王の言うことに従っていたのならば、ユダヤ民族は途絶えていたかもしれません。それ以降のイスラエルの歴史、聖書に記された歴史もすべてなかったことになります。
しかしこの二人の助産婦、シフラとプア(その意味は、シフラ=“美しい”、プア=“輝き”です)によってイスラエル民族全体が救われました。
 正確には、神の恵みによって二人の助産婦の心と信仰が強められ用いられ、やがて主イエス・キリストの誕生へと繋がる救いの歴史へと続くことになったのです。
 助産婦たちを恵み、強めてくださった神に今の私たちも守られています。神の恵みが私たちを強くしてくださいます。
神の恵みによって、試練の中でも(試練によって)私たちの信仰を強めてくださる主なる神を仰ぎ見て、神に感謝しつつ、信仰の日々を私たちも歩んでまいりましょう。