2023年7月29日土曜日

2023年7月30日 主日礼拝

招詞 詩編143篇8節
賛美  新生讃美歌 125番 造られしものよ
主の祈り
献金
聖句  ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節
祈祷
宣教  「霊の結ぶ実~愛の奉仕」
https://youtu.be/eOjClT5c5LM
祈祷
賛美  新生讃美歌 456番 恵み深きみ声もて
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷

今年度のわたしたちの教会の年間標語(テーマ)は「愛の奉仕 Give your service with love」です。
今年4月30日(日)の礼拝宣教でも、そのテーマを中心に、私はメッセージをいたしました。
今日もまた、今年の年間標語(テーマ)を念頭に、神の言葉を私たちは共に聞き、キリスト者として、神に奉仕する道とはどのような道であるかを示されたいと思います。
7月9日(日)の主日礼拝で、お二人の信徒の方がそれぞれ「奉仕」についてお証しをしてくださいました。私は別の教会での宣教奉仕のため、当日に直接そのお証しを聞くことができなかったのは、とても残念でした。
しかし、事前にお二人の証の原稿を読ませていただいていました。“神様が信徒の証しを通しても、信仰の喜びと励ましを私たちに与えて下さる”ということを、お二人の証しを通して改めて私は知ることができ、とても感謝なことでした。

コロサイの信徒への手紙3章16節に次のように書かれています。
 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。

別府国際教会バプテスト教会は、キリストの言葉によって立てられました。
私たちが互いに教え合い、励まし合いながら(牧師、あるいは教師・リーダーから信徒へという一方通行ではなく“互いに”)、神を褒めたたえ続ける教会でありたいと願います。
証しをしてくださったお二人とも、“キリスト者として神に仕え、教会を通して奉仕すること、奉仕をするその姿勢を、信仰の先輩から学んだ”という一つの点が共通しており、それが私にはとても印象的でした。
イエス・キリストを知り、神を信じる道へと導き入れられたのは、それはかつて私たちにキリストを伝えてくれた人(先達)がいたからです。
そして私たちがキリスト者として教会を通して神に奉仕ができるのも、それは多くの場合、私たちに神へ奉仕することの模範を示してくれた信仰の先達がいたからであると私は思います。

かつて出身教会で、ある姉妹から、「わたしは教会で頼まれた奉仕は断らない」とおっしゃった姉妹がおられました。
誤解がないように申し上げますが、わたしは皆さんに「教会で頼まれたことは、断っちゃいけない」と申し上げたいのではありません。その点ははっきりさせてください。
奉仕は、それぞれの事情と賜物によってなされるものですから、出来る方が無理なく自発的に献げてくださればとわたしは願います。
私にとって信仰の先輩であるその姉妹が、ご自身の信仰経験から、「わたしは、教会で頼まれたことは断らない」という言葉をおっしゃったのです。

その人のお人柄も知らされていた私は、大変その言葉に感銘を受け、「わたしも教会で頼まれたことは断らないようにしよう」と、その時心の中で決意をしました。
すると、ほんとうのすぐその直後と言ってもよい見事なタイミングで、わたしは執事に指名されるということが起こりました。おそらく、その姉妹の言葉を聞いて決意していなかったら、「わたしには無理です」と言って、私はその指名を断っていたと思うのです。
しかし不思議なタイミングでそのようなことが起こり、「もう私は、心で決めてしまっていたし」と思いながら、わたしは執事の一人になり、以後続けてずっと執事を務めることになりました。

今の私の牧師として働きも、色々な面で、かつての自分の牧師たち(神学校時代を含めれば、複数の教会に属しましたので、複数人います)の牧会の姿勢に影響を受けています。
「あの時、牧師はこういう風に対処しておられたのな」という記憶や、先生たちからその他にも学んだ色々なことが今自分が牧師として仕える様々なことに、とても活かされており、感謝に思っています。
もちろんかつて私の牧師たちが向き合った事柄や人々と、今私がBIBCで向き合わされている事柄、出会わされている人々は違いますから、私が学んだり考えたりしたことが、そのまま通用するわけではありません。
私には私なりの賜物や性格も与えられていますから、かつて教えられたこと、そして今自分が所属する教会の群れの中で教えられ続けながら、自分自身の牧師としての働きを私は日々学んでいます。
それは終わることのない信仰の学びであり、その点は牧師ではない信徒の方々にとっても全く同じ事であると私は思います。

奉仕に関して言えば、わたしたち皆異なる賜物を頂いていますから、それぞれの賜物と置かれた状況の中で、自分が喜びをもって賜物を活かしながら献げることができる奉仕を、私たちは献げていきたいと願います。

今年の教会標語の聖句はガラテヤの信徒への手紙5章13節ですが、今日の聖書箇所は、その後に続く、ガラテヤ5章16~26節を私は選びました。

最初の節である16節に次のように書かれています。
16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
愛をもって互いに仕えるためには、「霊に従って歩むことが必要だ」とここで、この手紙の著者であるパウロは言うのです。
一見してここでは「霊と肉」という言葉が私たちの目を引きます。肉の思いとは、はっきり言えば、私たちのうちに生まれながらに備わった自分自身の欲望のことです。

19~21節に、人間の欲が引き起こす色々な行いが列挙されています。そこで挙げられている一つ一つを詳しくお話しすることはできませんが、それらを短くまとめることは可能だと思います。

「姦淫」や「わいせつ」などは、性的に自分の欲望を、他者の尊厳を無視して満たそうとすることです。
「偶像礼拝」や「魔術」とは、神でないものを神とすることであり、何か神秘的なものや刺激的なもので、私たちの感情に不思議に働きかけるようなものを、神としてしまうことです。
自分の利益や願いを守ろうという思いが、間違って高まりすぎることで、“争い”や“怒り”が引き起こされます。
そして「泥酔」、「酒宴」という方法で(すぐ効果があると一見思えるような安易な方法で)問題を紛らわそう、解決しようと私たちはします。しかし、物事の根本に対処しない限り、本当の問題は解決をしません。
そのような肉の思いや欲望に従って歩まず、霊に従って歩みなさい(生きなさい)と今日の箇所は私たちに伝えるのです。

「霊」とは神の霊であり、イエス・キリストの霊です。イエス・キリストの霊に従って私たちは歩むことで、22~23節に記された信仰の実の数々を私たちは結ぶことができるようになる、と言うのです。
肉の欲、わたしたちの欲望や怒りなどの負の感情は、自分自身では制御できないものに思われます。実際、それらは私たち自身で制御したり、完全になくすことはできません。

しかし、24節に驚くべきことが書かれています。
 24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

キリストを信じるとは、イエス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださったことを信じることです。イエス様は十字架の上で、その命と引き換えに私たちの罪を全て赦してくださいました。
そしてまたイエス様は十字架の上で、私たちの肉の欲望をも一緒に十字架にはりつけにして、その力を滅ぼしてくださった、というのです。
わたしたちは、自分たちのうちに多くの否定的な(負の)感情が備わっていることを知っています。
人を羨んで人が持っているものを自分のものにしたいと望んだり、あるいは人を嫌いになったり、怒ったりしたことが無いという人はいないでしょう。
そのような思いがわたしたちから消えてなくなることはありません。しかし聖書は、私たちがそのような肉の思い、否定的な感情には支配されずに生きる道がある、と言うのです。
十字架のイエス・キリストを見上げる時、私たちはご自身と共に、私たちの肉の思い、欲望をも滅ぼしてくださったお方を見上げるのです。
そのイエス様が、今も聖書の御言葉を通して、そして神の霊である聖霊を通して私たちに先立って歩み、私たちを導いてくださいます。
私たちがキリストに従って、霊の導きに従って歩むとき、そこから生まれる実の数々が22~23節に書かれています。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
「愛、喜び、平和、寛容、、、、」などが、霊の結ぶ“実”と言われています。それは実ですから、それは時間をかけて結ばれるもの、ということです。
それはキリストを信じたら一瞬で与えられる、というようなものでありません。私たちが信仰生活の中でそれらを体現していくには、信仰の成長と訓練を必要とするのです。
それはイエス・キリストと繋がり続けることで、御言葉に聞いて御言葉を頂き続けることによって、信仰生活を通して、段々と造り上げられていくものなのです。
私にとっての一人の信仰の先輩で、色々な苦労をされながらも、献身的に多くの他者を助けることに人生を費やした方がおられます。
その方が、ある時しみじみと言った感じで、「主の御愛」と一言おっしゃったこと、その時のその方の表情をわたしはよく覚えております。「感謝なことは、主の御愛」とその姉妹はおっしゃりたかったのだと思います。
主の愛を自分自身が知らされ、その喜びのうちに生きていたからこそ、そのお方はそれほど献身的に他者にも仕えることができたのだと、私は確信しています。
主は、主の御愛、イエス・キリストの愛を私たちに与えてくださいました。敵意や怒りの感情は、その主の愛と喜び、平和の前には何の力も持たないのです。
それほどの愛が私たちには与えられているのですから、私たちは主に感謝をし、喜び、愛をもって互いに仕える(奉仕する)信仰生活を私たちは共に送っていきたいと願います。私たちひとり一人が主の御愛の内に生きることが、その第一歩です。

最後にローマの信徒への手紙8章1~3節(Romans 8:1~3)をお読みします。
1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。

イエス・キリストに結ばれるならば、もはや私たちは罪に定められることはありません。キリストに結ばれるならば、肉の思いに支配されることもありません。
キリストに従って、キリストに私たちのうちに住んでいただくことによって、肉の思いに捕らわれることなく、キリストの霊と共にわたしたちは、これからも歩んでまいりましょう。