2023年7月1日土曜日

2023年7月2日 主日礼拝


招詞 詩編98篇2~3節
賛美 新生讃美歌 134番 生命のことば たえにくすし
主の祈り
祈りの時
献金
聖書 ルカによる福音書3章1~14節
祈祷
宣教 「こんな石ころからでも」
https://youtu.be/lFGGKjQw4pM
祈祷
賛美 新生讃美歌 444番 清めらるる嬉しさ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷

 歴史上、多くの王や皇帝と言われた人たちが、大きな権力を手にして、それぞれの国や地域を統治、あるいは支配してきました。
 旧約聖書の『列王記』や『歴代誌』には、イスラエル・ユダの歴代の王たちに関する物語が記されています。
彼らの中には、主なる神の前にへりくだり、神の器として神と人とに仕えようとした王、あるいはそうではなかった者たちもいました。
 ダビデ王の息子であり王の位を継いだソロモンは、王となった時に次のように祈りました。

列王記上3章7~9節 (Kings 1 3:7~9)

7わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。
8僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。
9どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

ソロモンも人間であるがゆえの罪を犯しましたが、このソロモンの祈りからは、わたしたちも学ぶことが多いと思います。
まず、“王としての自分の特権や立場”は、主なる神から与えられたものである、という信仰です。ソロモンは“主よ、あなたがわたしを父ダビデに代わって王にお立てになりました”と告白しています。
しかしソロモンはすぐに「しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」と言って、自分自身には大勢の民を裁く能力がない、と言って告白します」
 これは自分自身の無力さを認めることです。しかしそれは同時に、主なる神への信頼を含んでいます。なぜなら、「このわたしを、能力がないにも関わらず、あなたがお選びになったからです」という信頼が、ソロモンの心の中にはあったからです。

そしてソロモンは次のように祈っています。
9どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。

祈りをもって願い求めれば、神は必ずわたしたちに必要なものを与えてくださいます。自分に足りないものを、謙虚に神に願い求める姿勢が、ここで表されています。
もし今、御自分が置かれている状況や、お仕事や、その他の責任などのために、不安や重圧を感じておられる方がおられましたら、ソロモンのこの祈りの言葉と彼の思いに、心を重ねてみましょう。
「主がこの務めを私にお与えになりました。しかし、わたしはどうしてよいか分かりません。正しく判断する力を(務めを遂行するために必要な力を)あなたがわたしに与えてください」

そのように私たちも常に祈る者、そのような信仰者でありたいと願います。
身を低くし、自分の力の無さを認め求める時、主なる神は必ずわたしたちのその祈りを聞いてくださいます。
今日の聖書箇所であるルカによる福音書3章は、当時のローマで皇帝であった人物、ローマの属州であったユダヤで領主、また祭司として権力を持っていた人物たちの記録で始まります。
皇帝、総督、領主、また大祭司などなど。。。それぞれ大きな権力を握っていた人たちです。彼らの中にも、ソロモンが神に願ったように、自らを低くして、真摯な気持ちで人民に奉仕しようという思いを持つ者もいたかもしれません。
わたしたちは、今の私たちの世界でも、大きな権力と責任を持つ人たちが、聡明な判断力と、良心的な心を持つことができるようにと、願い祈る必要があります。

3章1節に皇帝ティベリウスの名前が出てきます。2章1節では皇帝アウグストゥスの名前が出てきます。ティベリウスは、アウグストゥスの息子(養子であったようですが)であり、アウグストゥスを継いでローマ皇帝になりました。
 そしてポンティオ・ピラトがユダヤの総督~彼はローマ帝国から派遣され、ローマ帝国の属州となっていたユダヤを統治する行政の長でした。彼は後に、イエス様を十字架につけることを決定した人でした。
 次にヘロデ、フィリポ(彼らは、イエス様が生まれた時にいた、ヘロデ大王の息子たちです)、そしてリサニアが地方の領主であった、とも書かれています。
 そして、アンナスとカイアファという人たちが、大祭司(神殿で神に仕える仕事をしていた人たち)でした。

 皇帝、総督、領主、そして大祭司たちは、政治的に、また宗教的に大きな権力を持っていました。しかし、2節には次のように書かれています。

神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
 人間として当時の地中海世界の頂点を極めていたローマの皇帝や、ローマ帝国の力に基づいて任命された総督や領主、また宗教的に指導的な地位にあった大祭司にではなく、荒れ野の中で生活していた一人の預言者に神の言葉は降った、というのです。
 この世界をお造りになり、この世界を本当の意味でご支配なさっている神の、そのお方のお言葉が、皇帝や総督にではなく、荒れ野で生活していた一人の信仰者に与えられたのです。
 そのように、神の言葉は、いつ誰にでも降る可能性があります。神はその自由なお選びを通して、色々な方法で、色々な人の言葉を通して(たとえそれが一見目立たないような人、あるいは小さな子どもであっても)語る可能性があります。
 ですからわたしたちは心を開いて、信仰の身を低くして、色々な人を通して語る神の御声に耳を傾けたいと願います。
 ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯へ行き、人々に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を宣べ伝えました。

 「罪の赦し」とは、わたしたち人には生まれ持った罪が誰にでもあるので、その罪を赦していただかなくてはならない、ということです。そしてその罪は人間では赦すことができません。罪を持った人間が、別の人間の罪を赦す、ということはできないからです。
 罪を赦して頂くために、自分中心の生き方から、神中心の生き方へと生き方の向きを変える(方向転換)、それが“悔い改め”です。神のみが、人の罪を赦す権威をお持ちであるからです。
 神に向かって方向転換する=悔い改めの徴としての洗礼(バプテスマ)をヨハネはその時授けていました。多くの人たちが、ヨハネからバプテスマを授けてもらおうと思ってやってきました。
 しかしヨハネは彼らに非常に厳しい言葉を投げかけています。

7~8節
 7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

 バプテスマを受けるというのは、今の私たちにとっては非常に嬉しい、お祝いのときです。「一人の人が救われた!」、「信仰の家族の一員が増えた!」とわたしたちがとても嬉しく思い、感謝をする時です。
 しかし、先週の礼拝宣教でも申し上げましたように、洗礼(バプテスマ)は信仰の出発点であって、それで何かが完成した、ということではないのです。
 むしろバプテスマ以降の生き方が大事なのです。それを今日の箇所で、バプテスマのヨハネは、「悔い改めに相応しい実を結べ」と言っています。愛に溢れた神の赦しを頂いた、と信じるのなら、その恵みに相応しい生き方をしなさい、ということです。
 なぜそこまで厳しい言い方を初めからヨハネはしているのでしょうか?それはやはり、ヨハネからバプテスマを受けようと集まっていたイスラエルの民たち、その群衆の心の中にも、砕かれなくてはならない“傲慢さ”があったからです。
 それは「自分たちの祖先は、あの偉大なアブラハムだ。ユダヤ民族はアブラハムの子孫であり、神に選ばれし特別な民族なのだ」というプライドでした。

 ”今は、自分たちの国であるユダヤは、ローマ帝国に支配されているけれども、偉大なアブラハムを祖先に持つ、神に選ばれた特別な民族”という誇りが彼らを支えていました。
 そのようなプライドは、わたしたち誰もが持っているものです。自分が属する家や家系、あるいは組織(会社やその他団体)、地域や国等々。。。
そのようなものが(神以外の何かが)わたしたちの誇りの原因となっているのであれば、わたしたちも、今日の箇所でヨハネから厳しい言葉を投げかけられている群衆と同じです。
 「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」

今私たちが誇れるものが何かあるのならば、そのような幸運を頂いたこと、自分が持つことを許されているもの、それらは全て神の恵みだということを、今日私たちは新たに心に刻みつけましょう。
 神を信じ、神の恵みを感謝する者は、その生き方が変えられていきます。「わたしは変わらなくては」という思いが信仰を通して与えられるのです。
 ですから今日の箇所で群衆はヨハネに「では、わたしたちはどうすればよいのですか」 と聞いています(10節)

 11節以降で、ヨハネは一般の民衆に、そして徴税人と兵士にもそれぞれ答えを与えています。

11節のヨハネの言葉をお読みします。
「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」
 この言葉は、単純(シンプル)といえば非常にシンプルです。「余裕のあるものは、他者と分け合え」という教えです。
 単純で明らかな教えではありますが、実践するのは決して簡単ではないことです。まずわたしたちは、自分はそれほど何かを豊かに持ってはいない、と思ってしまうのではないでしょうか。
 また自分は持っていると気づいていても、色々な理由や言い訳を用いて、他者に与えることができない~わたしにはそういうことがよくあります。
 わたしたちは、ここでまた思い起こしたいと思います。どれほどの恵みをわたしたちは神から頂いているか、ということです。その恵みを分かち合うようにと神が願っておられます。
 神の恵みに気づいたのなら、自分にできるだけの行為を通して他者と分かち合うことが、どんな小さなことからでも始められるのならば、それは主なる神の前にきっと覚えられ、意味のある行いになると、わたしたちは信じてよいと思います。
 何かを分かち合うことができる、そんな人が(隣人が)身近に与えられている~考えてみれば、それも神の恵みではないでしょうか。
他者との交わり、関わりの中で、わたしたち自身の信仰、また信仰の無さ、そして自分の罪に向き合わされながら、神に向かって方向転換(悔い改め)して感謝をしつつ、日々を生きていきたいと願います。