2023年7月22日土曜日

2023年7月23日 主日礼拝

招詞 ネヘミヤ記13章31節b
賛美 新生讃美歌363番 キリスト 教会の主よ
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  ルカによる福音書3章15~22節
祈祷
宣教 「イエス・キリストの洗礼(バプテスマ)」
https://youtu.be/IWxF80c9hGw
祈祷
賛美 新生讃美歌 272番 神の息よ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷


 今日の聖書箇所は「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」という一文で始まります。
 民衆(The people)とは、イスラエルの人々です。聖書は、今日の聖書箇所に描かれる約2020年前のイスラエルの民たちのことを「メシアを待ち望む人々」と言っているのです。
当時イスラエル・ユダヤはローマ帝国に支配されていました。そのような状況の中、イスラエルの民たちは、自分たちの国をローマの支配から解放してくれる、救い主(メシア)の登場を待ちわびていました。
 “メシア”(Messiah)とは、ヘブライ語で‟油を注がれた者”という意味です。それは、王や聖職者たちが、その位に就く時に、彼らの頭に高価な香油が注がれた習慣から生まれた言葉です。

 “人々はメシア(救い主)を待ち望んでいた”という言葉から、彼らを屈辱的で苦しい状況から救い出してくれるお方=メシア(救い主)の登場を、イスラエルの人々がどれほど強く待ちわびていたのか、ということが分かります。
 一人の優れた人(リーダー)によって、私たちの生活、社会、また世界が良い状態に変えられることを期待する~そんな気持ちは今の私たちも持っているのではないでしょうか?
 民主主義の国では、政治家、国のリーダーは選挙によって選ばれます。選挙の時、“次の新しいリーダーが、苦しい(悪い)現状を何とか変えてくれるのではないか”という期待を、ある程度私たちは持つと思います。
ですから、今日の箇所で描かれる、”他国に支配された自分たちの国を解放してくれる救い主を待ち望んでいたイスラエルの民衆たちの気持ち”は、私たちにも理解できるものだと、私は思います。
 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で人々に「悔い改めて、自分中心ではなく、神中心に、神様の方向を向いて生きなさい」と呼びかけながら、洗礼(バプテスマ)を授けていました。

すると民衆は、ヨハネのその力強いメッセージと姿を見て、「この人が、自分たちが待ち望んでいたメシア(救い主)ではないか。いよいよメシアがやって来たのではないか」と考えました。
人々が自分のことをメシアだと期待しているのを察したヨハネは、次のように言いました。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。

ヨハネは、“わたしよりも優れた方が来られる”と言って、自分が救世主(メシア)ではないことを伝えます。“わたしよりも優れた方”=本当のメシア、キリストが来られることをヨハネは人々に指し示しました。
どんなに優れた人、力強く優れたリーダーなどであっても、人間が人間を救ったり、社会や世界の苦しく悲惨な状況を一瞬にして解決したりする、ということはありません。
 私たち人が根本から変えられ、私たちに本当の救いと解放をもたらしてくださるお方は、イエス・キリストだけです。今日のヨハネの言葉は、そして聖書全体はそのことを伝えています。
 ヨハネは水(普通の川の水)によってバプテスマという儀式を授けますが、その儀式を通して、人の心の内面を聖霊と火によって清め、変えてくださるのは、真の救い主イエス・キリストなのです。
しかし、あらゆることを(わたしたちが望むように何でも)一瞬で解決してくれるスーパーマンのような人を救い主として期待しているのならば、イエス・キリストも、そのような救い主ではありませんでした(ありません)。
 イエス様はむしろ、御自身神でありながら、私たちと同じように人となり、苦しまれ、悲しみを引き受けてご経験し、そして私たちの罪を担ってくださいました。イエス様は、私たち人と共に生きる道をお選びになりました。

 そしてキリストは、聖霊として私たちのうちに住んでくださり、私たち信じる者に希望と力、喜びを与えてくださいます。イエス・キリストは私たちを、神と共に神の国の実現のために、精一杯この地上で生きる者に変えて下さいます。
キリストがわたしたちのうちに住んでくださるので、そのキリストのお陰で、わたしたちは苦難、困難の中でも希望を持って生き、やがて完成される神の国を夢見て、今この時を、希望を持って生きることができるのです。
神様を信じれば苦難、困難がなくなるのではなくて、神様を信じれば、苦難、困難の中にも神が共にいて私たちを支えてくださる、ことが分かるのです。
神様を信じれば、苦難、困難がなくなるのではなく、神様を信じれば、この苦難、困難には何か神の前に意味(意義)がある、と信じて生きることができるようになるのです。

 よく、宗教や“神”を否定(批判)する人たちの意見として、こういう意見があります。「神様に頼ったり、お祈りに頼ったりするのは、人間を他のものに依存させてしまう。
お祈りして願いが叶うと信じるならば、自分で努力することを放棄してしまうようになる。」
 確かに気をつけていないと、キリスト者もそのように考えてしまう可能性(危険)はあるかもしれません。
神様を信じればすべてが上手くいく。あるいは牧師に任せれば(ある宗教団体によっては“教祖にお任せすれば”)問題は何でも解決する、と信仰者が考えてしまう危険性があるのです。
 ひどいケースだと、“献金を沢山すれば、そして神様のため、教会のために一生懸命奉仕をすれば、神様は何でも私たちの願うことを叶えてくれる”などと、間違ったことが主張されることもあり得ます。

 それらの主張は大切なことの順番を完全に逆にしてしまっています。奉仕も献げ物も、それらを沢山すれば神様が私たちを祝してくださる、のではありません。
 そうではなく、神は私たちを大いに祝してくださった、御子イエス・キリストの十字架を通して私たちの罪を全て赦し、あらゆる恵みを私たちに与えてくださった、ことをまず私たちは信じるのです。
 そう信じるので、そして神に赦され愛されたことが、嬉しくて感謝なので、その応答として私たちは献金をしますし、奉仕もするのです。
すべては神の恵みが最初にあり、私たちはその余りある恵みをただ感謝して頂くことができるだけなのです。わたしたちは神の恵みのほんの一部をお返しすることができるだけです。

 そのように信じるキリスト者は神に祈ります。そして私たち自身も夢や目標に向かって努力をします。何かを達成したいのなら、努力は不可欠です。
 そして私たちが望むような結果(成果)が得られたのならば、それは神の恵みであり賜物です。
 伝道者パウロは「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と言いました。(コリントの信徒への手紙一3章6節)
「植える、水を注ぐ」というのは、イエス・キリストの福音を人々に伝える伝道の働きのことです。
 パウロやアポロなど、当時の教会の指導者たちは、色々な国や地域へイエス・キリストの福音を宣べ伝える伝道活動をしました。
しかし、それでキリストを信じる者たちが生まれ、教会が出来て、信者ひとり一人が信仰者として成長することができたのは、伝道の働きをした自分たちの力によるのではなく、あくまで神の力です、というのです。

 今日の箇所のバプテスマのヨハネの姿も、そのような信仰者の姿です。ヨハネは、自分中心ではなく、神中心の生き方をするようにと、人々に“悔い改め”を呼びかけました。
 今日の箇所には、ヨハネが領主ヘロデに捕まり、牢に入れられたことが書かれています。自分の兄弟の妻を妻としたヘロデを、ヨハネは信仰的な信念に基づいて非難したのです。その結果彼は捕まってしまい(最後は殺されてしまいました)
 そこまで神のために働いたバプテスマのヨハネも、「自分は水でバプテスマを授けているだけです。人の心に働きかけて、本当の救いと新しい命を人に与えてくださるのは、真の神であるイエス・キリストです」と述べているのです。
 それが、イエス・キリストに救われ、キリストの救いの恵みを信じて生きる者の姿です。キリストに救われたから、私たちは精一杯努力して生きることができるのです。
 そして私たちは自分の働きの結果や成果を、自分を誇るためのものとしません。私たちは、ただ神に感謝をお返しするのです。そのような信仰者として、私たちも成長していきたいと願います。

21節には、イエス様が洗礼(バプテスマ)をお受けになったことが書かれています。ヨハネから、イエス様もバプテスマをお受けになったのです。
 イエス様は生まれながらに罪のない唯一の人でした。ですからイエス様は、わたしたちのように、罪の赦しを得るためにバプテスマを受ける必要のないお方でした。
 しかしイエス様は、あえてバプテスマをお受けになりました。バプテスマをイエス様もお受けになったということは、イエス様があらゆる面で私たちに先立って、信仰者として生きることの模範を自ら示してくださったということです。
 イエス様はバプテスマを受けて祈っておられた、と書かれています。バプテスマは信仰の出発点です。そして、信仰を決心してバプテスマを受けるということは、ある意味その時点から信仰の厳しい道のりが始まる、ということでもあります。
  イエス様は、信仰の道において、私たちが常に神に祈ることの大切さをここで示してくださっています。
 時に厳しい信仰の旅路の中で、神に祈り、神と交わりながら、力と希望を頂いて生きる模範を、御自身が祈る姿を通して、イエス様は私たちに教えてくださっているのです。
 私たちは、祈りを通して、そして聖書の御言葉を通して(聖霊の助けを頂きながら)神の言葉を知り、霊的にイエス・キリストと出会って、力と希望をイエス様から頂いて日々生きる、という信仰の生活を送るのです。

 さらに信仰者が神様から頂ける最も大いなるもの、それは神の愛です。
 今日の箇所でイエス様がバプテスマを受けられた時、”天が開けて、聖霊が鳩のように見える姿でイエス様の上に降った”、と書かれています。
そこで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者You are my Son, whom I love; with you I am well pleased.”」という声が天から聞こえました。
 イエス様は、私たち全ての人間の罪を背負って十字架で死ぬ、という過酷な使命を負って生まれて来られました。しかし、そのイエス様は、天の父なる神から愛されていたのです。
 その天の父なる神の愛を、御自身も豊かにお受けになった神の愛を人々に、そして今の私たちにも限りなく与えてくださるお方が、イエス・キリストです。
そのイエス様に従いながら、キリストを通して神様の愛を私たちも沢山いただきながら、喜びと希望の信仰を、私たちはこれからも歩んでまいりましょう。