2023年8月12日土曜日

2023年8月13日 主日召天者記念礼拝

招詞  詩編4篇9節
賛美  新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
召天者の紹介
主の祈り
献金
聖句  黙示録21章1~4節
祈祷
宣教  「新しい天と新しい地」
https://youtu.be/LOkHuIrdNe4
祈祷
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷

 今日私たちは「召天者記念礼拝」=私たちに先立って天に召されていった方々を特に覚える記念の礼拝=を持っています。
 一人の人がその一生をこの地上で終えるということは大きな出来事です。人の死は、私たちにとって最も厳粛なことの一つであると思います。
 死は大変厳粛なものであり、そして私たち誰にでも深く関係のあることです。私たち誰もが、いつか必ずこの地上での命を終える時、死ぬ時が来るからです。
 生きるということは死ぬということと不可分です。私たちは生きることを真剣に考えるならば、死についても同時に真剣に考えさせられます。
 愛するご家族やご友人、親しい人を亡くした方々は、その人ともう地上では会うことができない、その方がもう生きてはおられないという現実に直面します。
その現実を受け入れるのには、長く悲しい時を経なくてはならない場合も多いと思います。

かつて私の会社の上司が、ご自分のお父さんが間もなく癌で亡くなろうとしている時に、その疑問を「人は死んだらどこへいくのだろう」と、ぽつりとわたしの前で言ったことがあります。
そのお方は、親しい家族が間もなくいなくなるという現実に向き合おうとしておられたのでしょう。そして私たちも、「人は死んだらどこへ行くのだろう」という疑問を持つと思います。
 人はなぜ死ぬのでしょうか?そして死ぬと人はどこへいくのでしょうか?人は死んだらどうなるのか、どんなところへ行くのかー聖書にも、そのことについて誰にでも明確に分かるような、すぐに納得できるような分かりやすい答えは書いてありません。

しかし、イエス・キリストはこう言っています。

ヨハネによる福音書14章1節~3節
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたもいることになる」
イエス・キリストは、天の父なる神からこの世界に遣わされた神の子でした。イエス様は神の子であり、そしてまた神と等しいお方でした。
そのイエス様が「わたしの父の家」と言われたのは、ご自身が十字架の上で死んで、それから後に昇って行かれる天の国のことです。
イエス様はわたしたちに、心を騒がせるな(心配するな)、神を信じなさい、と言います。そして、天の父の家には住む場所が沢山あるから、そこにわたしたちのために場所を用意してくださる、とイエス様は約束をしてくださっているのです。

私たちは、この地上で生きる上でも色々な不安、悩み、そして苦しみがあります。それに加えて、やはり私たちは死への恐れ・不安があります。
そのような私たちにイエス・キリストは「心を騒がせるな」(心配しなくていい)とおっしゃるのです。“イエス様が天の父なる家に住む場所を用意してくださる。人はそこへ行くことができる”と、神を信じる者に向けて約束をしてくださっているのです。
天の父の家というその場所がどのようなところなのか、それがわたしたちにははっきりとは分からなくても、イエス様のそのお言葉と約束には確かな希望があります。
神でありながら人となり、地上で私たちと同じように人としての命を確かに生きて、そして十字架の上で死なれたイエス・キリストが残したその言葉によって、わたしたちには確かな希望が今も与えられているのです。
イエス・キリストの残した言葉(すなわち神の言葉)によって今も私たちに与えられる、そのような希望によって生きる道があることを、今日私たちは覚えたいと願います。

 先ほどお読みしました今日の聖書の箇所は『ヨハネの黙示録』という新約聖書の最後の書簡からの箇所です。ヨハネという人がパトモス島という島で囚われの身(島流し)にあった時に見た幻について書かれています。
今から約2000年前の当時、キリスト教は当時ローマ帝国から大変な迫害を受けていました。ヨハネはキリストを信じる信仰のために迫害されて、パトモス島に流されており(1章9節)、大変厳しい環境の中で生きていました。
 その時、神からヨハネに示された幻の数々が、ヨハネの黙示録には記されています。先ほどお読みした箇所、最初の部分をもう一度お読みします。
 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。
今日の宣教題にもしました「新しい天と新しい地」という言葉が出てきます。
聖書は『創世記』という書で始まります。創世記の最初は、“初めに神は天地を創造された”という一文で始まります。主なる神がこの世界をお造りになり、そして私たち人間も神がお造りになったと、聖書は伝えているのです。
そして神は私たちをこの地上で、永遠に生きるのではなく、この地上での私たちの命を限りあるものとしてお定めになりました。

 私たちの命が限りあるものであり、私たち人や生き物が必ず死ぬように、“天と地も、私たちの目に見える世界も、造られたものには全ていつか必ず終わりの時がくる、永遠ではない”~それが聖書が伝えるメッセージです。
しかし、その終わりの時には、世界が完全に滅びるとか、何もなくなってしまうというのではなくて、その時には“新しい天と新しい地が起こる”と今日の箇所は言うのです。
“終わりの時”に、世界は今と違って新しいものになるーという約束です。
次の3~4節を見てみましょう。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

 “神の幕屋” God’s dwelling placeというのはテントのことです。かつてイスラエルの民はエジプトで400年奴隷状態にありました。
彼らはモーセという指導者に率いられてエジプトの国を脱出します。“出エジプト”と言われる出来事です。
彼らイスラエルの民たちが、エジプトを出て自分たちの先祖の土地へ帰る旅の途中に、神が降り立ってモーセと語った場所が幕屋(テント)です。
神を迎え入れて神と人とが(モーセを通して)話をすることができる場所―それが幕屋(テント)でした。それは一時的に建てたテントの礼拝所、テントの教会と言ってよいと思います。
 幕屋(テント)は、その場所での役目を終えると、たたんでしまわれて、また別の場所へと移動されます。
この幕屋は、私たち人間のこの地上での生も象徴しています。私たちはこの地上で幕屋(いわば仮の宿)の人生を生きている、と言えるからです。そしてこの幕屋を去ると、私たちは、本当の故郷である神の国(永遠の住まい)へと帰っていきます。
神様は、今日の聖書の箇所の言葉を通して“いずれ私たちは、神様と共に住み、神様が私たちの悲しみ、涙をぬぐい取ってくださる、そして死も労苦、悲しみもない国へ行き、そこでは永遠に生きることができる”~そのような希望があることを私たちに伝えています。

そして私たちより先に、神を信じて天に召されていった兄弟姉妹たちも、神の御国でそのような慰めと平安を頂いていると私たちは信仰によって信じることができるのです。
“天の国では、神が私たちの悲しみ、涙をぬぐい取ってくださる。そこではもう死も苦労もない”~それが聖書の約束です。
ではそれは“今生きている世界では私たちは苦しいけれども、私たちが死ねば、悲しみも涙もない天国にいけるから、生きている今はただひたすら苦しいことも我慢しましょう”ということなのでしょうか?
 そうではありません。私たちは、この地上においても、神による希望によって喜びの人生を送ることができます。それは神によって既に実現した、ある出来事によって可能となります。
“神の幕屋が人の間にあって神が人と共に住む~これは将来起こることの約束であると同時に、実は、今から約2000年前にイエス・キリストが、人間として今のイスラエルにお生まれになったことによって既に実現した出来事でもあるのです。
イエス・キリストが人として誕生されたーそれは、神が人となってこの世界に生まれたということでした。神が人なり、私たちと同じように限りある命、肉体を生きられたのです。
なぜ神が人となって人と共に生きたのでしょうか?それは、私たちの悲しみと苦しみ、人間の罪をご自分のこととして、神がその身に引き受けてくださるためでした。
私たちはこの世では苦難があり、悲しみがあります、理解できずに悩むこともあります。牧師である私も、神の言葉をこうして語りながらも、特に人の命について、生きること死ぬことについては分からないことが沢山あります。

“なぜこのようなことが起こるのですか”と神に問いかけたくなることも私にも沢山あります。答えのでない疑問を色々と抱えながら、それでも私たちは生きていきます。
しかしそれでも、この聖書の言葉から、私たちは確かな希望と慰めを頂くのです。
神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
 この言葉は、私たちに向けた将来の約束であると同時に、イエス・キリストを通して既に実現している出来事でもあると、聖書を通して私たちは信じることができます。
私たちが悲しむ時に共にいてくださり、私たちのその悲しみを共に担ってくださり、私たちと共に泣いてくださる神がおられるのです。
私たちの涙をことごとくぬぐってくださる神、死を滅ぼす力をお持ちの神であるイエス・キリストが今も私たちと共に確かにおられるーこのことを、召天者記念礼拝の今日私たちは覚え、神に感謝をしたいと思います。
そして私たちはこの地上で生きるようにと神から与えられた(限られた)命を大切に、私たちお互いの悲しみや苦しみも、できるだけ分かち合って、寄り添い、互いに支え合いながら生きていくことができればと願います。