2023年8月5日土曜日

2023年8月6日 主日(平和)礼拝

招詞 マルコ9章50節
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
主の祈り
祈りの時
献金
聖句 エレミヤ書29章10~14節
祈祷
宣教 「平和の計画」
https://youtu.be/bHH_BkNquAI
祈祷
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 672番

 今日は平和を覚える礼拝です。もちろん私たちは、今日だけでなく、常に平和を追い求め、平和の実現のために努力をしなくてはなりません。
 イエス様は「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と、「山上の説教」と言われる教えの中で、言われました。
 イエス様のその教えに従えば、平和とは、信仰によって私たち信仰者が実現していくものです。
私たちはどのようにして、平和を実現していくことができるのでしょうか?今日私たちは、信仰による平和の実現について、旧約聖書『エレミヤ書』の言葉から教えられたいと思います。

 今日の箇所(エレミヤ29章10~14節)の背景は、バビロン捕囚と言われる歴史的な出来事です。紀元前6世紀、イスラエルはネブカドネツァルという王様のバビロン帝国に滅ぼされました。
そして何回かに渡って、イスラエルの多くの民たちは、イスラエルからバビロンへと連れ去られ、移住させられました。それがバビロン捕囚です。
今日の箇所であるエレミヤ29章の初めを読むと、今日の箇所の言葉は、エレミヤという預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)が書いた手紙に記された言葉であることが分かります。
エレミヤ自身はイスラエルに留まっていました。そして彼は、捕囚としてバビロンへ連れて行かれた同胞たちへ向けて神の言葉を手紙に書いて送ったのです。

今日の10節に次のように書かれています。
10主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。

故郷から外国へ連れ去られた民たちに、「神はあと70年経ったら、恵みの約束をはたし、あなたたちを故郷へ連れ戻す」とエレミヤは書いて伝えたのです。
さて、これを聞いた、イスラエルの民たち、捕囚の民としてバビロンにいたイスラエルの民たちはどのように思ったのでしょうか?このエレミヤの言葉を聞いて、彼らは嬉しいと思ったのでしょうか?
彼らは嬉しいよりも、まず悲しくなったのではないでしょうか。70年という年月は、捕囚の身分になっていた、ほとんどの人にとっては、「自分が生きている間には、もう故郷に戻ることはできない」ということを意味したでしょう。
では、それがなぜ恵みの約束なのでしょうか?

もし人々が、「捕囚から解放され、自分の国へ帰る」こと、その事だけを望むのならば、エレミヤがここで伝える神の約束は「希望の約束」とは、とても思えないでしょう。
 しかし、自分自身の思いにではなく、神の御心を第一として、神の御心に思いを向けるのならば、この神の言葉は、恵みの約束となるのです。
 自分が生きている間には故郷には戻れないかもしれない。それが現実であり、神もそのように明確にイスラエルの民に(預言者エレミヤの言葉を通して)伝えたのです。
捕囚は70年続く~それは厳しい現実でした。聖書の神は、信じる者に、現実にしっかりと向き合い、現実から目を背けることなく、現実の世界の只中で、それぞれが置かれた場所で、信仰をもって生きていくようにと促し、そして励まします。

捕囚は70年続きますが、そこには人々の思いを越えた神のご計画がありました。

11節をお読みします。
11わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

捕囚の生活が70年続くことは、故郷に帰ることだけを願っていた人にとっては“災い”、“不幸”としか思えなかったかもしれません。
 しかしその現実の中にも、神が立ててくださった平和の計画(英語では“あなたたちを繁栄させる計画”)がある、と言うのです。その神による平和の計画の中にこそ、将来と希望がある、と言うのです。
どこに希望があるのでしょうか?それが次の12節から14節の初めに書かれています。

12そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
13わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
14わたしに出会うであろう、と主は言われる。

それは、イスラエルの民たちが、厳しい現実の只中にあっても、共に神に祈り求めることができる、ということです。「あなたがた(複数)がわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」
これは、あなたがたが共に祈り求めるならば、神であるわたしはその祈りを聞く、とここで神が約束してくださっているのです。私たちの祈りと願いを、主なる神が聞いて下さっている、それは測り知れない恵みです。
 そして同じ信仰を持つ者同士が一緒に祈る、特にお互いの祈りの課題を覚え合って祈ることができることは、私たちにとって大きな力となり励ましとなります。
私が信仰生活の中で段々と分かって来た恵み、知らせられてきた恵みは、自分の祈りの課題を、他の信仰者、神の家族である教会の皆さまに祈って頂くことです。

信仰を持ち始めた最初の頃の私は、中々自分の祈りの課題を人に伝えるということができていなかった、と思います。神への祈りや願いとは個人的なものだから、とわたしは考えていたのかもしれません。
しかし、信仰生活を続けて送る中で、段々と、自分が願っていること、困難に思っていることなどを、他の信仰者に祈ってもらえることの恵みを私は知ることが出来ました。

同じ神を信じる同信の友(家族)が祈ってくれていることは、それ自体が私にとっての大きな力となる恵みを私は知らされてきました。
 私のために祈ってくれる信仰の友へ、本当に感謝の気持ちも湧いてきます。「あなたのために祈っていますよ」という言葉を、段々と素直に喜びをもって私は聞けるようになってきたと感じています。
そして、個人的なことを打ち明けて祈ってほしいとお願いできるためには、その人との間にそれだけの信頼関係(絆)ができていなくてはなりません。
同じ教会に通っていても、そのような絆を作るためには、ある程度の時間(年月)がかかります。

先日、北九州地方連合の小学科の夏期学校(キャンプ)が一泊で行われました。わたしもスタッフとして参加しました。今回のキャンプのテーマは「へいわってどんなこと?」でした。
キャンプで、普段違う教会につながっている子供たちが出会って、知り合いになる、そしてやがて友達になります。この「友達になる」~これが平和の一つの形だな、とわたしは改めて思わされました。
 友達になり、お互いのことをより良く知り合うこと、それが平和、少なくとも平和の一つの形ではないでしょうか?
 相手のことを知れば知るほど、相手の良い面だけでなく、自分にとって嫌だな、と思える面も見えてきます。
たとえそうであっても、自分とは異なる考えや価値観なども、できるだけ受け入れ、理解をしようとわたしたちは努力することが求められます。
 自分とは違う考えや立場を持った人たちと出会い、その違いを受け入れ合い、乗り越えることができるのならば、そのようにして生まれた絆は一層強い絆になると思います。
 そうして生まれた絆、信仰の絆で結ばれた者同士が、同じ神の名、イエス・キリストの神の名によって祈る時、私たちは“共に祈る”こと自体に大きな喜びを感じますし、また「祈りは聞かれる」ということも、いっそう確信することができるのです。
 お互いに祈り合える信仰の仲間、祈ってほしいとお互いにお願いし合うことのできる信仰の絆を、私たちは、私たちの教会で作っていきたいと願います。

今日の箇所の直前の4~7節に次のように書かれています。少し長いのですが、引用してお読みします。

4「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。
5家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。
6妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。
7わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

 神はバビロンで捕囚となっているイスラエルの民たちに、バビロンで家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。そこで結婚して家庭を築いて生きなさい、と言います。
 捕囚は70年続くのですから、「あなたたちは、その地にしっかりと根を下ろして(一時的、という気持ちではなく)、家族で力を合わせてしっかりと生きなさい」と神は言うのです。

そして大切なことが7節に書かれています。
7節「あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」と書かれています。
 私たちが生きる場所で、働く場所で、置かれたそれぞれの場所で、そこで共に生きる人々のために、私たちは祈ることが求められている、ということです。
 「その町のために祈りなさい」~その町、すなわち私たちそれぞれが生活する場所、地域、社会の平安を覚えてあなたがた信仰者は祈りなさい、と言うのです。そのような祈りも平和を実現していくことに繋がるからです。
 社会と世界の平和の実現のためには、法律や規則、条約と言ったもの(制度)も重要でしょう。
しかし私たち信仰者にとって最も重要で力ある、平和の実現のための手段は祈りです。それしかない、と今日の箇所から私はますます思わされました。

祈りこそが平和の鍵です。祈りこそが、私たち信仰者が神から与えられている、平和のための一番の武器であると、私たちは信じることができます。
そして同時に、私は牧師であり、このようにして「祈りこそが平和の鍵です」と申し上げながら、どれだけ祈りの力を信じ、本気で普段祈っているのかと問われました。
 信仰者同士共に祈ることができる喜びは、先程申し上げたように、私は頂いています。
しかし、神が困難な中、厳しい現実の中でも、「祈りによって、あなたがたは平和を実現できるのだ」と約束してくださっている神の言葉をどれだけ信じ、本気で祈っているのか、とわたしは問われているのです。
皆さんはいかがでしょうか?
私たちは、こう確信したいと思います。自分のため、他者のため、そして社会、世界のために祈る、また教会のために祈る~神の名によって祈る私たちの祈りには確かな力があるのです。
なぜなら、その祈りを聞いてくださる主なる神が、何にも優って力強いお方、そして真実であり誠実なお方であるからです。
その主に信頼をし、祈りこそが平和を実現すると心から信じつつ、私たちはこれかれも心からの祈りを、共に捧げていこうではありませんか。