2023年8月19日土曜日

2023年8月20日 主日礼拝

招詞  イザヤ書58章11節
賛美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書3章23~38節
祈祷
宣教  「イエス様による宣教の始まり」
https://youtu.be/srX5_klNX2s
祈祷
賛美  新生讃美歌 230番 丘の上にたてる十字架
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷


今お読みいただいた、今日の聖書の箇所には、イエス・キリストの系図が記されています。イエス・キリストの地上での父親であるヨセフからさかのぼり、最初の人であるアダム、そして神に至る系図が、ここに記されています。
マタイによる福音書の1章にも、イエス・キリストの系図が書かれています。しかし、マタイ福音書の系図は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まり、アブラハムから始まってイエス様へ至る(古い時代から新しい時代という順番による)系図となっています。
マタイ福音書のその系図は、イエス・キリストが、ユダヤ人たちが自分たちの偉大な祖先として敬っていたアブラハム(信仰の父と言われた)、そして偉大なダビデ王の系図につらなる者だということを示していました。

しかし、マタイ福音書のその系図は、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」(マタイ1章6節)という記録も記しています。
それは旧約聖書『サムエル記下』11章に記されている出来事のことです。王となったダビデは、バト・シェバという美しい女性と関係を持ちました。
バト・シェバにはウリヤという夫がいました。それにもかかわらずダビデはバト・シェバと関係を持ち、バト・シェバはダビデの子を宿しました。
ダビデは、自分とバト・シェバが関係を持ち、バト・シェバが彼の子を宿したことを隠蔽しようとして、戦場にいた兵士ウリヤ(バト・シェバの夫)を呼び戻しました。
ダビデはウリヤを自分の家(バト・シェバのところ)へ帰そうとしますが、ウリヤは自分の主人や仲間が戦っている時に、自分だけが家に帰って飲み食いしたり、妻と寝たりすることはできません、と言って家に帰ろうとしませんでした。
結局ダビデは、軍の司令官だったヨアブに「ウリヤを戦の最前線に置いて、彼を残して退却して、ウリヤを戦死させよ」と命じました。そしてウリヤは戦死しました(はっきり言えば、ウリヤはダビデによって殺されたと言ってよいでしょう)。
そしてダビデはバト・シェバを自分の妻としました。ダビデは、忠実な兵士であった男の命を奪ってまでも、自分の罪を隠そうとし、そして彼の妻であった美しい女性を自分の妻としたのです。
ダビデの妻となったバト・シェバが最初に産んだ子は、早く死んでしまいました。その後にバト・シェバとダビデの間に生まれたのがソロモンでした。(ソロモンはダビデについで王様となり、莫大な財力を持ち、エルサレムの神殿を完成させました)
マタイ福音書の系図は、「ダビデが罪を犯した」とは言っていません。しかし、その系図は「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」という記録を通して、偉大と言われたダビデ王も、人として大きな罪を犯したという事実をはっきりと伝えているのです。
そのような罪を抱えた人間の系図の中に、全く罪をもたなかった神の子であるイエス・キリストが、ヨセフとマリアの子として(彼ら二人の男女の関係によってではなく、聖霊を通して)生まれて来たのです。

マタイ福音書の系図がアブラハムから始まって、新しい世代順に書かれているのとは違って、ルカ福音書3章の系図は、イエス様から始まって、古い世代へ遡る順番で書かれています。
またダビデの次の名前がソロモンではなく、ダビデの別の息子のナタンの系図になっていて、マタイ福音書の系図の名前とは違っている部分もあります。
その違いについては、色々な解釈や説明が試みられていますが、明確な答えはないようです。

ですから私たちは、これらの系図に厳密な歴史的事実(正確な名前の列挙など)を読み取ろうとするよりも、神の子であり主であるイエス・キリストが、確かに人の世の歴史の中に生まれてこられた、という中心的な真実を、まず受け取ることが重要だと思います。
今日の箇所の最初(23節)に、「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた」と書かれています。
30歳という年齢の意味するところは何でしょうか?旧約聖書の『民数記』4章の3節には、”臨在の幕屋(神様が現れてモーセに語られた場所)で作業に従事することのできるのは三十歳以上五十歳以下の者”と書かれています。
 当時のしきたりで、三十歳ぐらいにならなければ、神に仕える仕事をすることはできない、と定められていたのです。人間的にもそれぐらいの年齢を重ねることによって得られる経験も、神に仕えるために必要なものと考えられていたのかもしれません。
 イエス様も当時のそのような定め(しきたり)に従う形で、父親のヨセフの仕事(大工)も学びながら、人として生きることの辛さ、大変さ、悲しみ、また喜び、楽しみもご経験されながら、やがて公に宣教活動をする時のために備えておられたのです。
 ひょっとしたらイエス様は、できればもっと早く公の宣教活動を始めたい、と思っておられたかもしれません。

もっと若い時から、早く宣教活動を始めれば、もっと沢山の人に神の国を伝えて、多くの人の病を癒したり、多くの人を罪から救うことができたでしょう。
しかしイエス様も、人として、ある程度の期間(年月)をかけて学び、人生の経験も積むことにより、それから先の大きな使命を果たすことに備えるという時を過ごされたのだと私は想像します。
私たちも、やはり何かを成そうとすれば、それなりの準備、学び、経験を時間をかけて積むことが必要な場合があります。
技術や経験はすぐに身につくものではありません。時間をかけた地道な努力を続けることは辛い時もあります。しかし、そのように時間をかけて得たものである経験や技術ほど、後になって自分自身に本当に役立つものになります。
学生の皆さんや、新しく仕事を初めて間もない方々など、将来の夢や目標に向かって何かを準備されている方、そのために必要な経験や技術の習得の過程におられる方がおられましたら、皆さんの地道な努力はきっと報われると信じ、希望を持っていただきたいと願います。
あるいは、「今やっていることの意味や意義が分からない」と悩んでおられる方もおられるかもしれません。しかし、今ご自分が置かれた場で、誠実に与えられた務めをなさっていることは、決して無駄になることはないと信じていただいてよいと思います。

そして「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」という一文から私たちが教えらえるもう一つのことは、「神が私たちに備えられた時(タイミング)がある」ということです。
”その時”が来たら、その時には私たちは信仰による勇気をもって立ち上がるのです。そのように神様から信仰によって促されるのです。
それは新たに神様を信じる、という信仰の決断であるかもしれません。また新しいことを始める、あるいは今までそのために準備してきたことを実行に移す時であるかもしれません。
「いまがその時だ」という確信、信仰による促しが与えられた時には、私たちは勇気をもって立ち上がるのです。
私自身の経験を語らせて頂ければ、私が会社員としての生活を辞めて、牧師になるために神学部に入学すると決めた時には、そのような信仰による促しが確かに私には与えられました。
そしてその決断は私一人による決断ではありませんでした。家族や、また何よりも同じ教会に連なる信仰の兄弟姉妹たちの思いと祈りに支えられ、神の御心が教会全体の思いとなって私の心を押してくれたと私は信じています。
年齢で言えば、私はその時ちょうど40歳でした。(ちなみに、”30歳から50歳まで”という旧約の定めに従えば、私はもう牧師を引退していなくてはなりません!)
もう少し早く決断できていればよかったかな、とわたしは思う時もあったと思いますが、やはりそれが神が備えてくださった私にとっての一番のタイミングであったのだろうと、私は信じます。

何が神の御心であるのか、神が定めたタイミング(時)がいつであるのか、それを完全に知ることはわたしたちには出来ないかもしれません。
そうであっても、神の御心を少しでも知るために、また神の定めた時を知り、それに従って大切な決断ができるように、私たちは心合わせて(心を開いて)共に祈り合わせる、共に御言葉を読み分かち合う、教会での信仰生活を大切にしていきたいと願います。
 イエス様は三十歳にして、公の宣教活動を始められました。イエス様にとってもそれは大きな決断、そして勇気を要する決断であったと思います。
 しかしイエス様は神の子でした。人間としてはヨセフを父親として、ヨセフからもイエス様は色々なこと(大工としての仕事と技術なども)を学んだはずです。そのように、イエス様も私たちと同様に生きられました。
 しかしイエス様は神の子でした。イエス様は神と等しいお方であったということです。今日の箇所の系図の最後は「~アダム、そして神に至る」という文で終わっています。
 この最後の「そして神に至る」という点も、マタイ福音書の系図とは大きく異なる点です。
ルカ福音書のこの系図は、イエス様が人間の歴史に連なり、人として生まれて人として生きられた証しであると同時に、イエス様が神の子とであり、特別な使命を負って生まれて来られたお方であることを証ししているのです。
人として生き、学び、人生の様々な経験をして、そしてイエス様は当時のしきたりにも従って、およそ三十歳になって神に仕える公の活動を開始されました。
その大きな決定的な決断(公の伝道活動の開始)を、神の子として、神の愛と人(家族)からの愛も受けながら、イエス様はなさったのです。
私たちも時に、自分の人生の中で重要な、(時に難しい)決断をしなくてはならない時があります。
そのような時に、神を信じ、神に繋がることで、そして神の宮、イエス・キリストの体である教会に連なることで、私たちは自分たちが下す決定に大きな支えを頂くことができます。

私たちは人間ですから、神の御心を知ることができず、あるいは御心に従うことができず、間違いを犯すこともあります。ですから、いつも神に立ち返る悔い改めの姿勢が私たちには必要です。
しかし同時に、私たちの日々の歩みに、また日常の決断の中にも、神が人となり、今は霊として私たちと共にいてくださるイエス・キリストが、おられます。ですから私たちは安心してよいのです。
私たちは、イエス・キリストと共に真の平安のうちに生きていきましょう。またイエス様が始められ、今もその働きを続けておられる神の国の宣教、福音宣教の働きにも、信仰者として仕えて行きたいと願います。