2023年8月26日土曜日

2023年8月27日 主日礼拝

招詞  テサロニケの信徒への手紙二 3章5節
賛美  新生讃美歌 626番 主はいのちを与えませリ
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句  出エジプト記2章1~10節
祈祷
宣教  「水の中からわたしが引き上げた」
https://youtu.be/-pLJyfJ3TxE
祈祷
賛美  新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌 672番
祝祷


 今日の聖書の箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』の中の、モーセが生まれた時の話です。モーセという名は、クリスチャンでない方でもお聞きになったことがあると思います。
エジプトで約400年間奴隷生活を送っていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させた時の指導者であり、そして神の言葉を受け取って、それを人々に伝えた預言者がモーセでした。
今日の箇所では、そのモーセがどのような状況の中で生まれたのか、について書かれています。まさに命の危機から救われた、生まれた時のモーセに起きた出来事を通して、私たちは神の守りと恵みについて、聞いていきたいと思います。

 2章1節に「レビ(イスラエルの一部族)の家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった」と書かれています。この二人がモーセの両親です。
 そして次に「彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」と書かれています。
 なぜその母親は、生まれた男の子を三ヶ月隠しておいたのでしょうか。それは、この時エジプトでは、「ヘブライ人(イスラエル人)たちの数が増えすぎて、エジプトにとって脅威になる」と恐れたエジプト王のファラオが、全国民に「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込め」と命じていたからです。
 そのような状況の中で、そのレビ人の夫婦の間に男の子が生まれました。エジプト王の命令に従うならば、その子はナイル川に放り込まれなくてはなりませんでした。

 しかし、母親はそうすることができませんでした。日本語聖書では「その子がかわいかったのを見て、三ヶ月の間隠しておいた」と書かれています。英語訳では、when she saw that he was a fine child (その子が、素敵な子であるのを見て)と訳されています。
 この文は、旧約聖書が書かれた元のヘブライ語では、「彼は美しかったbeautiful(あるいは“良かった”good)」と書かれています。ヘブライ語で“トブtob”という単語がつかわれています。
『創世記』の最初に、神が世界をお造りになった時、神ご自身がお造りになったものを見て、「神はこれを見て、良しとされた」(創世記1章21節)と書かれています。そこで“良し”も、そのヘブライ語“トブtob”という言葉がつかわれています。

 ですから、今日の箇所でモーセの母親が生まれた自分の男の子を見て、「かわいい(美しい)」と思ったというのは、一人の母親がわが子を見て「かわいい」と思う以上の意味が込められています。
 もちろん母親にとって(父親にとっても)生まれた自分の子供はかわいく、美しいものです。いくら王の命令であっても、その子を川に放り込むことなど出来るわけがありません。
しかし、それ以上に、今日の箇所で「その子は良かった」と書かれているのは、人の命は神によって造られ、与えられたものであり、限りなく尊い、ということを私たちに伝えています。
 その子は神が造られたものであるからです。神によって造られた命であるから、私たちひとり一人の命は、限りなく尊いのです。神が見て“トブtob”=“良いgood”と言って下さったのが、私たちであるからです。

 私たちは神が見て“良し(good)”あるいは“美しいbeautiful”と言ってくださった、私たちひとり一人の存在と命を尊びましょう。
自分の命も、また自分以外の他者の命をも、私たちは「神がお造りになって“良し”と言ってくださった」と信仰によって信じて、尊ばなくてはならないのです。
 モーセの母親は、その子がかわいく愛おしいのを見て、三ヶ月の間その子を隠しておきました。でももうそれ以上隠しておけなくなりました。
母親はパピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水して、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。

その時母親はどんな気持ちだったのでしょうか。もうこれ以上隠しておくことができないというギリギリの状況だったのですが、そのように息子を手放す(あるいは捨てる)ことに、大きな悲しみとあるいは罪悪感をも感じたかもしれません。
 しかし私たちはこの箇所を読む時、モーセの母親は、きっと自分にできるだけのことは精一杯して、もうそれ以上自分に出来ることがなくなった時に、自分の息子を神の守りに委ねた、と理解してよいのではないでしょうか。
 母親はいつまでも息子を守ってあげることはできませんでした。しかし、神は必ず自分の子を守り、恵みを与えてくださると、彼女は信じていたのです。
ですから、彼女は決してモーセを捨てたのではなく、神を信じ神の御手に我が子を委ねたのです。

私たちは大切なものや、あるいは大切な人、あるいは自分自身を神に委ねるということができないために、返って苦しむことがあるのではないでしょうか。信仰をもって神に委ねる、ということを私たちは実践していきたいと願います。
 その後、その子の姉(モーセの姉)が遠くに立って、どうなるのだろうかと見ていました。このモーセの姉も重要な役割を果たしています。彼女は、どうなるのかをただ見ていることしかできなかった、と私たちは思うかもしれません。
 自分の手でその子を再び取り上げて母親のところへ戻す、ということは彼女にはできませんでした。彼女にできるのは、ただ遠くから眺めているだけでした。しかし、それでもそれが彼女に出来る精一杯のことでした。
 心配しながら、その子の安全を祈り願って、離れたところから見守る~それも大きな働きです。そのような、姉からの愛の眼差しが、川の中に(葦の茂みの中に)置かれたモーセに注がれていたのです。
 時に私たちも、誰かを離れたところから(離れたところから)見守ることしかできない経験をするかもしれません。

 私の長男が今年の春から就職し、家を離れて遠方で働き始めました。遠くにいますから、今普段の私にできることは、祈り、最善を願って、息子のために祈る、ということです。
 それしか私にはできない、とも言えますが、愛と誠の神を信じ、身近な人のことを神に委ねて祈る、そしてその人を見守ることは、決して意味のないことではありません。私たちの信じる神は、私たちの祈りを必ず聞き届けてくださるお方であるからです。
籠に入れられて川の中に置かれたモーセを遠くから見守る姉の姿は、わたしたちをいつも見守っていてくださる神様をも思い起こさせます。私たちの神は私たちをいつも見守っていてくださるお方です。
詩編121篇5節に次のように書かれています。
主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

わたしたちを見守ってくださっている主がおられるので、私たちは安心して生きることができます。
わたしたちがどこへ行こうとも、どんな状況にあろうとも、見守っていてくださる主がおられるので、その主に、私たちは愛する人、大切な人を委ねることができます。愛と守りを与えてくださる神に、私たちは感謝をしようではありませんか。
モーセの姉が遠くに立ってどうなるかと見ていると、そこへファラオ(エジプトの王)の王女が川に下りて来て、葦の茂みの間に籠を見つけました。仕え女をやって取ってこさせると、籠のなかには男の子の赤ちゃんがいました。

王女はその子を見て、ふびんに思った(かわいそうに思った)と書かれています。モーセの母親が、生まれた子をみて「かわいい、美しい」と思って、できるだけその子を守ろうとしたように、王女にも赤ん坊をみて、「かわいそう」だと思う感情が湧いたのです。
 この「かわいい」と思う、あるいは「かわいそう」と思う感情も、神が私たち人間に与えてくださった賜物の一つです。感情によって(感情だけではありませんが)、私たちは人を愛し、思いやることができるからです。
王女は「きっとこの子はヘブライ人の子だ」と思い、そう言いました。そこでその子の姉がファラオの王女に「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んでまいりましょう」と言うと、王女は承知しました。
王女は、連れてこられたヘブライ人の乳母(その子の実の母)に、自分に代わってその子に乳をやって育てて欲しい、と依頼しました。そしてその子が大きくなると、なんと王女はその子を自分の子として引き取った、という驚きの出来事が起きたのです。

 王女は彼をモーセと名付けました。それは“引き上げる”という意味のヘブライ語の単語に基づいた名前でした。王女が「水の中からわたしが引き上げたかのですから」と言って、その子がモーセと名付けられたのです。
 確かに、水の中からモーセを引き上げたのはエジプトの王女でしたが、彼女を通して奇跡的にモーセの命を救ったお方は、主なる神です。
神が、色々な人たち(モーセの母、妹、エジプトの王女、彼女の仕え女:全員女性)を用いて、モーセの命を守り、救ったのです。
 そのようにして神の守りの御手がモーセを水から引き上げてくださったように、私たちにも、私たちが危機や苦難に陥る時、そこから引き上げて助けてくださる神がおられます。
そして神はいつも私たちを守っていてくださいます。神が私たちを守ってくださる~そのことをなぜわたしたちは確信できるのでしょうか。
それは私たちの主イエス・キリストが天の父なる神に、わたしたちを守って下さいとお願いしてくださっていることからも、私たちはそう信じることができます。
 ヨハネによる福音書17章で、イエス様が十字架に掛けられる前、弟子たちのために祈っておられます。そこでのイエス様の祈りは、今も私たち全ての者へ向けられた祈りなのです。その祈りをお読みします。

ヨハネ17章11節
 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 「わたしに与えてくださった御名(*神の名)によって彼らを守ってください」~イエス様のこの祈りの言葉が、私たちを神がいつも守ってくださっていると、約束しています。
私たちは聖書の言葉によって、イエス・キリストのそのお言葉によって、今も私たちを守ってくださっている、守り導いて下さっている神を信じることができます。
私たちをいつも守り、危機の中から救い、引き上げてくださる、そのような主なる神が確かにおられることを信じ、私たち今週の日々も歩んでまいりましょう。