2023年10月21日土曜日

2023年10月22日 主日礼拝

招詞 エレミヤ書23章29節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句 ルカによる福音書4章31~37節
祈祷
宣教 「御言葉の権威」
https://youtu.be/N6VvfGJnhwg
祈祷
賛美 新生讃美歌 506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌 604番
祝祷

 今日の聖書の箇所に、イエス様が「安息日には人々を教えられた」ことが書かれています。今日の箇所の前の部分の4章16節にも、安息日に会堂(今のクリスチャンにとっては教会)に行き神を礼拝することが、イエス様の習慣であったことが記されています。
一週間の中の六日間は仕事(人それぞれが、すること)をし、一週間の中の一日は安息日として神様のために特別に取り分けることは、神から私たち人に与えられた厳粛な命令であり、またそれは私たち人にとって大きな祝福でもあります。
安息日は、私たちが神によって造られ、そして神との交わりの中に生きることを、確認し喜ぶ日でもあります。

それぞれの仕事や他にしなくてはならないことを中断することで、この世のどんな事柄も、神様から私たちに与えられる祝福に優るものはない、と私たちは確認します。私たちが神によって生かされる、ということを確信するのです。
教会の礼拝で私たちは神を礼拝します。そして礼拝の中で、私たちは神の言葉、神の教えの言葉を聞きます。今日の箇所で、“イエス様は会堂に行き、そこで人々を教えておられた”と書かれています。
イエス様は時々そのようにした、というのではなく、安息日にはいつも会堂へ行き、そしてそこではいつも人々を教えた、というのです。イエス様は人々を“教える人=先生”でもありました。

イエス様は繰り返し神の教えについて、聖書の言葉について、おそらく同じことであっても重要なことならば何度も繰り返して人に教え続けました。
神の言葉、神の教えは尽きることがありません。イエス様は、その地上での生涯の約三年間の公(おおや)けの宣教活動の中で、神の言葉を語りきることはできなかったと私は思います。
神の言葉の恵みは無限であるからです。私は牧師として毎週の礼拝で、あるいは祈祷会やその他の機会にも、聖書の御言葉から語らせて頂いています。
一つはっきりしていることは、私が一生かけても、この聖書の言葉の全てを語り尽くす、(そもそもわたし自身が聖書の御言葉を知り尽くす)ということは出来ない、ということです。
しかしイエス様は神の子であり、わたしたちの罪を背負い十字架の上で死なれた救世主でした。

ですからイエス様は、(言葉としては全てを語りきることができなかったとしても)神の子として私たちに伝えるべき全てのことは、その生涯と、そして十字架で死なれたイエス様ご自身のお姿を通して全て私たちに語ってくださった、とも言えます。
今私たちは、私たちに伝えられた(残された)聖書の言葉を神の言葉として、イエス・キリストの教えに照らされながら、いつも聞いていきたいと願います。
神の言葉は私たちにとっての霊的な食べ物です。食べ物を食べないと生き物は栄養失調となってしまいます。
御言葉をいただかずに霊的な栄養失調になってしまえば、その先にあるものは、霊的な死です。
聖書は、わたしたちが誰も霊的な死に至ることがないように、神の言葉として今もこうして残され、聖書の言葉に基づいたメッセージが、今も世界中のキリスト教会で語られ続けています。

イエス様が語った神の言葉には特別な力がありました。今日の32節に次のように書かれています。

32人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

私たちが神の言葉を確かに聞いたかどうか、どうして分かるのでしょうか?私たちが確かに神の言葉を聞いたかどうか、それを測る一つの物差しとして「驚き」があります。
今日の箇所で、イエス様の教えを聞いた人たちは、“非常に驚いた”のです。同様に、わたしたちも本当に神の声を聞いたのならば、神の教えを本当に聞いたのならば、わたしたちは驚くはずです。
“驚き”とは、自分が揺さぶられるような衝撃的な経験をするということです。神の言葉に圧倒され、それほどの感動を与えられる、自分が覆されるような経験をするということです。
 聖書の伝える神のメッセージは驚きに満ちています。私たちのこの世界が、天地のあらゆるものが神によって造られた、というのも驚きのメッセージです。
 神が人となられ、イエス・キリストとして世に来られ、神の国と神の愛について人々に分かる言葉で教えてくださった、というのも驚きのメッセージです。
 わたしたち(特にクリスチャン)は、神の言葉への驚きを、経験しているでしょうか?
 私たちは信仰生活が長くなると、聖書の物語やイエス様のお言葉についても、その内容については詳しくなり、知識は増すでしょう。

 聖書の中の物語やイエス様のお言葉についても、馴染みのある箇所であればあるほど「この箇所については私はもうよく知っている。その意味も理解している。以前に何度も私は読んで考えた」と思うことがあるかもしれません。
 しかし、そうではないのです。たとえ同じ箇所、同じ御言葉であっても、聖書の言葉はその度ごとに新しい響きと新鮮さ、そして驚きをもって私たちに迫って来るのです。
神の霊である聖霊の光で私たちの心、そして御言葉も聖霊で照らされる時、その御言葉は私たちにその度毎に新たな驚きをもって迫ってくるのです。
神の言葉が驚きとなって私たちに迫ってきて、自分が揺さぶられ、罪を知らされ、神によって自分が変えられる自覚、あるいは変えられなくてはならない、という自覚が生まれます。
そのように驚きをもって、御言葉をいつも受け止める、そんな教会で私たちはありたいと願います。

 今日の箇所には、その時人々がイエス様の教えに驚いたその理由がはっきりと書かれています。イエス様の教えには権威があったからです。

「その言葉には権威があったからである。」(32節)

イエス様がお持ちであった権威とは、力で相手をねじ伏せて無理やり言う事を聞かせるような権威ではありません。
力で相手をねじ伏せて強制的に言うことを聞かせるのは本当の権威ではありません。そのような権威ならば、それは少なくとも聖書が伝える神の権威ではありません。
  イエス様がお持ちであった権威は、神の愛の力によって、私たちを内側から根本的に変えてくださる、そのような権威です。
 外側から力や恐怖で脅して私たちを無理やり変えるのではなく、御言葉を繰り返し繰り返し語ることで、それを聞く人自身が内側から(時間がかかっても)変わっていくような権威が、イエス様がお持ちであった権威です。
 神は今も忍耐を持って、繰り返し神の言葉を、私たちに語ってくださっています。そのような神の忍耐と、神の言葉の中に、本当の権威があるのです。

しかし私たち人間は、神の言葉に反発しようとする性質があります。今日の箇所では私たちを神に反発させるものとして“汚れた悪霊”が描かれています。
イエス様が教えておられた会堂の中に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、その人がこう叫びます。

「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(34節)
 「かまわないでくれ(あなたと私と何の関係があるのか?)」~これは、“わたしを一人にしておいてくれ、かまわないでくれ”という叫びです。
 悪霊や悪魔が、どのような存在であるのか、それは私たちにははっきりとは分かりませんが、しかしそれらは確かに存在します。聖書がそのことを明確に告げているからです。
今日の箇所で描かれる汚れた悪霊から判断すると、悪霊の働きは、わたしたち人を孤独にさせるものです。私たちを神の愛から遠ざけようとする存在です。“神などいなくても、わたしは一人で十分やっていける”と私たちに思わせる存在です。
“神などいなくても、わたしは一人で十分やっていける”、“他の人などいなくても(お付き合い程度に、ある程度関わりはもってもいいけれども)わたしは十分にやっていける”、今日の箇所で描かれる悪霊は、人間にそのような間違った思いを抱かせる存在です。

しかし、私たちは決して一人では生きていけません。真の神との交わりがなければ、私たちは霊的に死んでしまうのです。
そして真の神の交わりに生きる生き方は、自分以外の他の人とも親密で霊的な交わりをもつようにと私たちを促します。

ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。

わたしたちも、このような思いを(キリスト者であっても)持つことがあるかもしれません。
 2000年前に十字架刑で死んだ一人のユダヤ人が、今の私と何の関係があるのか?しかし、そのお方が今の私たちとも大いに関係があるのです。そのお方の存在、イエス様の十字架の死がなければ、今の私たちの命もないのです。
 わたしたちは全てを分かっているわけではありません。神の事柄について、聖書の言葉について全てを知り尽くす、語り尽くすとういことはわたしには出来ません。牧師である私にもそれは絶対に不可能です。
 しかしそれでも、私たちがこうしてキリストの教会として立てられ、集会(礼拝)を続け、神の言葉を語り、分ち合い続けるのは、神を信頼し続けるのは、次の理由に拠っています。
 人として生まれた神の子イエス・キリストがいなければ、私たちは真の意味で生きていくことはできないからです。
そしてイエス・キリストがこの私たちと共にいてくだされば、この世の何ものをも、悪霊さえも恐れることは全くないからです。そのことを私たちは信じているからです。
 私たちは繰り返し繰り返し神の言葉(聖書の言葉)を聞き続け、私たちに対する神の愛、神の守りをますます知っていきましょう。神の言葉を自分の中に豊かに蓄え、神と共に生きる命を喜びたいと願います。

 今日の箇所でイエス様が「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその人を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った、と書かれています。
イエス様のお言葉以上に強いものはないのです。お言葉一つで、どんな悪の力をも退散するのです。ですから私たちはイエス・キリストの言葉一つ一つを、悪に立ち向かう武器としても、心に蓄えねばなりません。
 悪霊はその男の人に何の傷も負わせることもできませんでした。どんな悪の力も悪霊も、真の神の力の前に私たちを少しでも傷つけるような力を持ってはいないのです。
 それほどに力強い神の力が、今も私たちには聖書の言葉として与えられています。悪に打ち勝ち、私たちを根本的に変え、変革させる権威ある神の御言葉にいつもより頼みつつ、私たちは信仰の日々を歩んで参りましょう。