2023年10月28日土曜日

2023年10月29日 主日礼拝

招詞  ヨシュア記24章24節
賛美  新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
主の祈り
献金
聖句  エフェソの信徒への手紙4章11~16節
祈祷
宣教  「キリストの体を造り上げる」
*機材不調の関係で、音声データは本日ありません  
祈祷
賛美  新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷

 キリスト教の信仰は、神であるイエス・キリストが人となってこの世界にお生まれになり、人々に神の国を、そして神の愛と赦しを宣(の)べ伝え、最期は全ての人の罪を背負って十字架の上で死に、そして復活した事実の上に成り立っています。
 イエス様は、神の国を人々に伝える使命を、ご自分の弟子たちにまず託されました。イエス・キリストの死後、イエス様の弟子たちは共に集まり、やがて教会を建てて、教会を中心にして信仰を守り、イエス・キリストの教えを世に伝えるようになりました。
 その使命を、今を生きる私たちキリスト者一人一人も負っています。その使命をわたしたちは、私たちの教会の使命としても、もちろん負っています。

今イエス様は人としては生きておられませんが、イエス様を信じる私たちの中に聖霊としてイエス様は住んでくださっています。
そして私たちは教会としてもイエス・キリストの聖霊をいただいています。聖霊が私たちを一つに結びつけ、キリストにある信仰の共同体として私たちを導いてくださっています。
ですから私たちは常に祈り、私たちに先立ってくださる聖霊の導きに従って、また聖霊が自由に豊かに働いて下さるような教会でありたいと願います。
キリスト教会には様々な人が集まります。そしてまた、教会に連なる私たちそれぞれには様々な賜物(gifts)が神様から与えられています。
私たちそれぞれが異なった人間であること、また私たちそれぞれが異なる賜物を持っていると言うその多様性も、神の聖霊が豊かに教会で働かれるために、とても大切なことです。

今日の聖書箇所(エフェソの信徒への手紙4章11節~17節)の最初の節に、神がキリスト者一人一人の賜物に応じて、人々に異なる役割をお与えになったことが書かれています。
 最初に書かれるのが「使徒」apostlesです。使徒とは、イエス様によって選ばれてイエス様の直弟子となった最初の12弟子のことを言います。(後に、教会で重要な責任を果たす人も使徒と言われるようになりました)
 イエス様の最初の弟子であった12弟子は、イエス様と共に生活し、イエス様の生き方、そしてイエス様の教えに間近で接していました。
 最初の使徒たちの教えが重要であったのは、彼らがイエス様と直接接し、イエス様のお言葉と行いに直接触れた人たちであったからです。
ですから、使徒たちの伝えたこと、使徒たちの教えは大切なものとして、初期のキリスト者に、また今の私たちにも聖書を通して受け継がれています。
 最初の使徒たちが他の人たちに比べて特別に重要であり優秀な人だった、ということではありません。彼らはごく普通の人たちでした。

 しかし神は、最初の弟子たちを神のご自由な選びによってお選びになり、彼らが協力してイエス・キリストの福音を、イエス様の死後も宣べ伝え続けるようになさったのです。
 現在のキリスト者である私たちも、神によって選ばれて、キリストを信じて生きる者となりました。私たち自身が何か他の人に比べて特別優れていたから、ということではありません。
 ですから私たちは、キリストを見上げ、キリストを思う時、「このわたしが、ただ神の恵みによって選ばれた」ということを、心から感謝したいと願います。
 そして神へのその感謝の思いが、ますます私たちを謙虚にし、神と人の前にへりくだった生き方をする者へとしてくださるようにと私たちは願います。

 教会に集まる私たちが皆違っていること、そして私たち一人一人に異なる賜物が神様から与えられているのには、一つの明確な目標があります。
 それは12節に書かれていることであり、今日の宣教題(メッセージのタイトル)でもある「キリストの体を造り上げる」ということです。
「キリストの体」とは、キリストの教会のことです。教会はキリストの体なのです。わたしたちの身体に色々な部分があるように、キリストの体である教会も色々な部分でなりたっています。
キリストの体(教会)の部分とは、教会につらなる私たち一人一人のことです。それぞれの部分が合わさって協力をして、一つの体を造り上げるのが教会です。
そしてわたしたちは「神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」(13節)のです。

もう一度お読みします。

「神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」
これは私たちにはまだ実現していない一つの幻と言ってよいと私は思います。
私たち人は、同じキリスト者であっても、それぞれの考えや信念、または好みなどの違いによって中々一致することができないのが現実ではないでしょうか。
しかし私はそれでも希望を持っています。
今年度2023年度のわたしたちの教会の年間標語は「愛の奉仕 give your service with love」です。ガラテヤの信徒への手紙5章13節の御言葉をその関連聖句として、私たちは選びました。
 教会の皆さんの中から(実際には、皆さんによって選ばれた執事(deacons)の方々から)、「イエス様から頂く愛をもって教会に奉仕したい。自分の満足を求めるのではなく、愛をもって神様に奉仕をしたい」という思いと希望が挙げられたのです。
コロナ感染症の間、教会の活動も色々と制限され、皆さんに奉仕していただく機会も限られていた中、今年度の初めにあたって、そのような思いが表明されたことは、大変印象的なことでした。
 ただ“奉仕しましょう”ではなく、“愛の奉仕を捧げましょう”という思いには“イエス様から私たちがいただく愛(イエス・キリストの愛)が奉仕の土台”という信仰があります。
 奉仕の動機はイエス・キリストの愛なのです。イエス様の愛が素晴らしく、私たちはイエス様の御愛に感謝をするから奉仕をするのです。
 自分だけの満足、自分のための栄光を求めるのではなく、自分がその体の一部として繋がる体全体(イエス・キリストの体全体)が栄光を受けることを、私たちは求めるようになるのです。

 今日の箇所の最期の16節を見てみましょう。
16キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

 「体全体」the whole bodyという点が非常に重要です。「体の一部」、すなわち教会の中の一部の人たちだけが成長する、のではないのです。
 体の一部分が体から切り離されてしまっては決して生きていくことはできないように、私たちもキリストの体である教会から離れてしまっては、私たちが霊的な命を生きていくことは決してできません。
そして、もし私たちの中から誰かが欠けてしまうのならば、それは“体全体の成長”ではなくなります。
「体全体が互いに補い合い、体を成長させ、自ら愛(キリストの愛)によって造り上げていく」(16節)ことを、神様からの信仰の命令としても私たちは厳粛に受け止めて、互いに支え合っていきたいと願います。
体全体で、私たち皆でキリストの体である教会を造り上げるという信仰を私たちは大切にしていきましょう。
賜物とか奉仕というと、何か人の目に目立つような具体的な働きのことが思い浮かぶかもしれません。

しかしたとえそれが人の目には目立たないようなことであっても、キリストの愛に基づくものであれば、いかなる奉仕にもその差(優劣の差)はありません。
礼拝の奉仕表に載っているようなご奉仕ではないとしても、同じキリストにある信仰の家族の一員として、まず礼拝や祈祷会に来てくださること、共に礼拝し祈ってくださること、それが尊い奉仕です。
また様々な事情で教会に来ることが出来ない方々でも、教会を覚えて祈りと献げ物を献げてくださる方々もおられます。それらも尊い奉仕です。

私たちが神を信じ、神を愛するとき、私たちがどのような状況におかれていようとも、私たちが神に奉仕することを妨げるものは何もないのです。
 今日の箇所の前の部分の節になりますが、エフェソの信徒への手紙4章7節に「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられていますと書かれています。
 神はキリストを通して私たち全ての者に恵みを与えてくださっているのです。恵みとは私たちが何か立派なことをしたことへの報酬や見返りのことではありません。
 神の恵みとは、ただ神の愛と憐れみによって、私たち人間の側には何の功績も善い行いもないにもかかわらず、神からイエス・キリストの十字架を通して私たちに与えられたものです。
 それほどの恵みをいただいた私たちは、その恵みへの感謝の応答として、奉仕を捧げていきましょう。(キリストの)愛の奉仕を捧げていこうではありませんか。
そして私たちは、まず私たちの教会の中から、信仰の一致、一つの体としての成熟と成長を目指していきましょう。

 さきほど私は、“これはまだ実現していない一つの幻”と申し上げました。しかし、私たちが信仰をもってキリストの愛に立ち続ける限り、それはいつか必ず実現するのです。
 なぜなら、イエス・キリストへの信仰は、14節に書かれているように「悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」に基づくのではないからです。
イエス・キリストへの信仰は、昨日も今日も、そしていついつまでも変わることのないイエス・キリストの御言葉、神ご自身の限りない愛、神の約束に基づいたものなのですから、たとえどれほど時間がかかっても、いつか必ず成就するものなのです。
キリストが私たちの中心にいてくださる限り、わたしたちがキリストの愛に根ざしている限り、私たちは今日の聖句が約束してくれているように、キリストへの信仰と知識において一つとなるということが必ず実現します。
 様々な賜物をお持ちの皆さんお一人お一人が、聖書の御言葉を信じ、キリストの愛に基づいて、それぞれの賜物を献げる度に、わたしたちは信仰の一致と信仰の成熟へと近づいているのです。
 キリストの体の一部とされていること、キリストの愛に基づいた信仰にわたしたちを神ご自身がしっかりと捉えてくださっていることを感謝し、“愛の奉仕”を喜んで私たちは献げて生きましょう。