2023年10月14日土曜日

2023年10月15日 主日礼拝

招詞  詩編119篇105節
賛美  新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書11章29~36節
祈祷
宣教 「わたしの目が見ているものは?」
*本日は信徒説教につき、音声データはありません  
祈祷
賛美  新生讃美歌 296番 十字架のイエスを仰ぎ見れば
頌栄
終祷


皆さん、おはようございます。牧師が小倉教会での宣教に出かけておりまして、今日は私が宣教を担うことになりました。想像していたより、難しくて、とても苦しかったです。牧師が宣教の準備をするときはもっと優しくいっぱい祈ろうと思いました。
しかし、兄弟姉妹が祈ってくださいましたので、本当に心強く頑張ることができました。感謝申し上げます。

今日選ばせて頂いた聖書個所は教会学校の成人科で皆さんと一緒に読んだ箇所です。成人科では、秋吉さんのリードの元でルカによる福音書を読み進めていますが、8月20日に読んだのが今日のところでした。
その前の週の教会学校では今日のところの前の部分を読みました。その箇所には、イエス様が口を利けなくする悪霊を追い出して人を癒したので、ある人達が“この男(イエス)は悪霊の力によってこんな奇跡を行った!”と言ったり、イエスを試そうとして天からのしるしを求める者がいた(11:14~16)とありました。

それに対し、今日の箇所でイエス様は「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言っておられます。

教会学校では皆さんが色々分かち合いをしていました。その話を聞きながら、その時まで気が付いていなかった点にいくつか気が付きました。
分かち合いの途中で気が付いたのは、前半部分の 「人々がしるしを欲しがる」のをイエス様が叱るところと、後半の「体のともし火は目」というところが繋がっていることでした。
それまでは、その二つの関連性はあまり考えずに、ただそういうものだと思って読んでいました。

でも、イエス様は、「目に見えるしるし」の話しに繋げて、私たちの「目」はどうあるべきかを教えてくださったのです。

「よこしま」という言葉を調べてみたら、「横になっているさま(様子)を表して、「正しくない」「道理にはずれた」という意味があるそうです。
態度が横になっていて、イエス様を真正面から向き合おうとしない態度です。横になっているとは、おそらく不純な動機と悪意をもって人を試そうとする態度、Having an attitude of lying down is an
また、すでに自分の考えでいっぱいで、相手の言葉に耳を傾けようとしない態度のことでしょう。

しるしを求めている彼らは今までイエス様の言動や奇跡を一度も見たことがなかったのでしょうか?今日読んだ箇所はルカによる福音書の11章ですが、前の何章かをめくってみると、既に多くの奇跡が行われていたことが分かります。
会堂長のヤイロの娘を癒したこと、やもめの一人息子を生き返らせたこともありました。あの有名な、五つのパンと二匹の魚で5000人を食べさせた奇跡もありました。うわさはユダヤ全地域に広まっていたとも書いてあります。
おそらく、この人たちもイエス様の言動や奇跡を見たことがあったでしょう。噂も沢山聞いていたはずです。それでも、この人達はまだイエス様が信じられない、あるいは、認めることができないでいたのです。

そんな人達からしるしを求められたら、私なら、あなたたちに与えるしるしは「もうない!」と言いそうですが、イエス様は「ヨナのしるしのほかには与えられない」と言いました。言い換えれば、「ヨナのしるしは与えられる」ということです。
ヨナは旧約聖書のヨナ書の預言者です。海に投げられて、お魚のお腹の中で三日三晩いましたが、劇的に生還しました。そのヨナがしるしとなって、二ネべという国の人達は、真のイスラエルの神、本当の神様を恐れて悔い改める運動が起こったのでした。
ヨナが海に投げられて、お魚のお腹の中で三日三晩いたのに生還した、この信じられない奇跡の「しるし」を、イエス様はご自分が十字架で死んで三日目に復活する「しるし」と重ね合わせたのでした。

このすぐ後に、イエス様は突然、ともし火や目の話しをします。

もう一度、読んでみましょう。
「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。

あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」
ともし火とは、イエス様のことです。神様はイエス様というともし火を灯して、入って来る人誰もが見えるようにされました。確かに、イエス様は見ることができる存在として世に来られました。昔々あるところに住んでいた人ではなく、歴史の中で生きた歴史上の人です。
公生涯の間は弟子たちと共に生活していましたし、多くの群衆の前で話して、奇跡をなさって、最後は十字架にかかりました。そして多くの弟子が命をかけて証ししたのが、イエス様は復活した、ということでした。

おびえてイエス様を捨てて逃げていた弟子たちが、イエス様の復活を見て、聖霊を受けてからは、世の権力も迫害も死も恐れずにイエス様が神の子であること、復活したことを公に語り伝えました。これらのことはみな聖書に書いてあります。
ともし火が燭台の上に置かれて周りを照らすように、イエス様も人々が見られる位置にいつもいらっしゃるということです。
そのイエス様というともし火を、私たちが自分の目でしっかり見つめる時、私たちの目は澄んでいて、全身が明るくなると教えてくださいました。
目が澄んでいれば、と言う言葉は英語では when your eyes are good と分かりやすく書いてあります。
目が良ければ、体も良いということです。また全身が明るくなるとは、心だけでなく、他人が見ることのできる全身も明るくなるというのです。

ここで、明るいとは、アルバイト募集の時に明るい方大歓迎みたいな、性格が良くて笑顔で、的な意味ではないと思います。
聖書がいう全身が明るいとは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制が私たちの人格に現れることだと思います。これは、カラテアの信徒への手紙の5章の有名な「聖霊の実」の箇所です。
聖霊は私たちの中にいらっしゃるので、その姿を目でみることはできませんが、その方と深い交わりの中で生きる時、段々と見えるような形で、私たちの人格にこれらの実が現れると言うのです。
愛がある人、真の喜びが溢れる人、平和がある人、本当に心から優しい人、その上に誠実で、自己節制がある人!素敵すぎです。
私たちの目が良ければ、これらの実が現れて、全身が明るく、他人にも見えるようになるとだと、イエス様は教えてくださいました。今日は、全身が明るくなるためには、どうすればいいのか、もっと探ってみたいと思います。
イエス様は、一言、「目が良ければ」と教えておられます。目が良ければ、全身が明るいのです。
「目が良い」とは、イエス様というともし火をしっかり見つめることです。イエス様という「ともし火を見つめる」ためにはどうすればいいでしょうか。

その一つは、自然の中で、神様を見出すことです。自然啓示とは、目に見える自然界を見て、目に見えない神様のメッセージに気づくことです。
天、海、太陽、月、星、木や花、それを見るとき、それ自体をあがめるのではなく、それらを創った創造主に思いをはせることです。
私が好きな番組でNHKの「ダーウィンが来た」とか「人体の神秘」がありますが、本当に神秘です。
神と秘密と書きまして、神秘ですね。
人間が指一本加えることもできない、美しく繊細でものすごい力の働きが、生物・動物の生体にはありますし、今この瞬間も私たちの体の中で働いています。
NHKでは神様ということばは使っていませんが、本当に神の存在を思わずにはいられません。
また、「イエス様というともし火を見つめる」とは「聖書」を読むことです。イエス様はこの世にことばとして来られたと書いてあるように、みことばを見ることはイエス様を見ることになります。
聖書は、イエス様に対する証しで満ちています。特に今回は、「見る」ことが宣教のテーマだったので、聖書を読むたびに、「目」や「見る」との単語が目につきました。他にも沢山あると思いますが、最近読んだ聖書箇所をいくつか紹介します。

(コロサイの信徒への手紙1章15~16節a)
御子(イエス)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、
見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。

パウロがローマの獄中でコロサイの信徒へ書いた手紙に、この祈りの文が入っています。

ヨハネの手紙1章1節から、
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。
イエス様の一番の愛弟子の一人だったヨハネがヨハネの手紙をこのことばで初めています。自分は神の子イエスを目で見て、その声を聞いて、手で触れたと感動をもって証言しています。

これらの聖書のことばを見るとき、その存在を静かに思うとき、私たちの目は神様、イエス様を見つめることになるでしょう。
この宣教の準備をしながら、私自身が一番恵まれました。教会学校で、皆さんの口から出てくることば一つ一つが大事な真理を含んでいて、聞いているだけで恵まれます。そして、ひらめきが与えられます。
また、家で宣教の準備の為に何度もくり返し読んで黙想しながら、目で見ることの大切さを今までなく強く意識するようになりました。

人は自分が見るものから影響を受けます。家族が似てくるのを見ると、いつも触れているものは大きな影響力があることが分かります。
実際の私の目が何を見ているのか、スマホ、韓国ドラマ、人々の顔色に目が行きがちです。
また、私の心の目は何を追いかけているのか、人の良くない癖、自分が人からどう見えるか気にする目、心配ごとに心が塞がってその問題だけに心の目がいきます。
また、私の心の目は、自分自身を見すぎていることもしばしばあります。自分のことで頭がいっぱいになってる時があるんです。
そういう時、わたしの目は暗くなっていて道に迷いやすくなります。その時がイエス様を思い起こすタイミングです。

実は、教会学校で学びをした次の日の朝、少し早く目が覚めたので、祈りをしていました。
その時、一つの心配ごとがあって、祈ってはいるものの、心が塞がれた状態でした。その時、前日に学んだ聖書の箇所が心に浮かんできました。
イエス様や奇跡を目の前で沢山見ていても、まだ、信じることができなかった人達と同じように、私も、クリスチャンになって26年の間、多くの奇跡を見てきました。

祈りが答えられた経験、大きなものや些細なものまで、その時すぐは分からなくても、ふり返ってみたら、実に多くの祈りが聞かれていました。
みことばも沢山読みました。しかし、まだ、「見ても見ても」まだイエス様を信頼するのを躊躇って、心配が晴れないのです。
その時、見ても見ても信じないで祈るいのりから、一言を祈ってもイエス様が誰なのか思い出して、信じて祈らなくてはいけないと教えられました。
この日以来、ほぼ毎日と言ってもいいくらい、このことば「見ても見ても(まだイエス様を信頼出来ずに心配するのか)」は、私の頭に浮かんできて、私を戒め、私の信仰をはげましてくれています。
その教えにとても感動し、教会学校での学びに心から感謝をしたので、この個所を宣教箇所に選びました。皆さんと、分かち合いたかったです。
イエス様のことは、信仰に入った人は皆分かっていますが、まだ教会に来てまもない方もいらっしゃるので、私が聖書から学んだイエス様をもう一度紹介して、宣教を終わります。
イエス様は、その人柄と言えば、皆が蔑むような人といっぱい語り合って、ご自分が誰なのか優しく説明してくれるお方です。
病人の病気を癒し、あなたの信仰があなたを救ったと、あなたの罪が赦されたと宣言してくださる優しいお方です。
力と言えば、水の上を歩くことがおできになり、何千何万の人をわずかなパンと魚で満腹にさせることができるお方です。

その聖さは、人間の偽善や隠れた罪を遠慮なくお叱りになります。私たちはいつか、この方の聖さの前に立って、自分の人生の申し開きをしなければなりません。
イエス様の人生の最期は私達の罪を赦すためにご自分が代わりに十字架につけられました。
骨がことごとく外れて、舌が顎にくっついたという生々しい表現が詩編にありますが、イエス様は何の為に、人が一番恐がる、辱めを受け、侮辱されて、呪われて死んだのでしょうか。
聖書からまた教会でぜひその答えを見つけてほしいです。
自分の考えでいっぱいでイエス様のことばに耳を傾けないよこしまな態度をすてて、イエス様を見つめ、その方を信じるようになる時、私たちの全身は明るく照らされると約束されています。
誰よりも、イエス様ご自身が、私たちが、私たちの人生が明るく照らされることを願っておられます。