2023年10月7日土曜日

2023年10月8日 主日礼拝

招詞 マタイによる福音書28章20節b
賛美 新生讃美歌 105番 くしき主の光
主の祈り
献金
聖句 出エジプト記3章1~12節
祈祷 
宣教 「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす」
https://youtu.be/BTJBIiyUT6U
祈祷
賛美 新生讃美歌 21番 栄光と賛美を
頌栄 新生讃美歌 674番
頌栄


 旧約聖書『出エジプト記』のモーセに関する物語から、今日もわたしたちは神のメッセージを共に聞いてまいります。
 奴隷としてエジプトに住むイスラエル人の子供として生まれたモーセは、生まれた時から三ヶ月の間、母親によって隠されていました。
その時、イスラエル人の数が増えてエジプトにとって脅威(敵)になると恐れたエジプト王のファラオが、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」と命令していたからでした。
 赤ちゃんのモーセを三ヶ月以上は隠しておけなくなり、モーセの母親はモーセをパピルスの籠に入れて、ナイル川の葦の茂みの中に置きました(2章3節)
 母として、それ以上はわが子を守ることができないという状況の中で、モーセの母は、そのように我が子を手放さねばならなかったことに、大変な悲しみと苦しみを覚えたでしょう。

しかしモーセの母は、神に向かってその時必死に祈りもしたでしょう。そして彼女は祈りを通して“イスラエルの神、主なる神が必ずわが子を救い出してくださる”と信じていたのだと私は思います。
 苦しみ、悲しみの中にも、私たちは神に祈ることができます。苦しみ、悲しみ、絶望のように思える状況の中にも、神がきっと助けてくださる、と私たちは信じることができます。
聖書はあらゆる箇所で、そのことを私たちに約束してくれています。出エジプト記も、まさに神の助け(救い)の物語です。

 モーセはエジプト王のファラオの王女によって見つけ出され、そして川から引き上げられました。そしてなんと、モーセの実の母が乳母として、モーセを育てることになりました。
 モーセは大きくなると王女のもとへ連れて来られ、エジプト王女の子としてモーセは育てられました。人では想像できない程の奇跡的な出来事を通して、神はモーセの命を救われたのです。
 モーセは成人したある時、同胞のヘブライ人(イスラエル人)がエジプト人に打たれているのを見て、憤りに駆られてそのエジプト人を打ち殺してしまいました。
 モーセは、そのことは誰にも知られていないと思っていましたが、モーセがそのエジプト人を打ち殺し、その死体を砂に埋めたということが人々に、またファラオにも知られていることが分かりました。
 王のファラオは、そのことでモーセを殺そうとしたので、モーセはエジプトから逃げる他なくなり、ミディアン地方へとたどり着きます。

モーセそこでミディアンの祭司の娘ツィポラと結婚し、子が生まれてその子はゲルショム(“寄留者”を意味するヘブライ語に基づいて)と名付けられました)
 モーセはその時、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったと、今日の前の箇所の出エジプト記2章22節に書かれています。
王宮からも離れ、また同胞のイスラエル人たちからも離れて暮らす自身の境遇を、モーセを“寄留者”と思ったのです。

 今日の箇所はそれに続く話です。
新約聖書の『使徒言行録』の7章に、ステファノという人が、イエス・キリストを信じる信仰のために迫害され、ユダヤの最高法院に引き出されて裁きを受けたことが記されています。
 ステファノは最高法院での裁判で、アブラハムから始まるユダヤ民族の歴史を、聖書(旧約聖書)の物語に基づいて話しました。
 ステファノは、聖書の物語を丁寧に語り直すことで、自分たちの先祖のイスラエル人たちが、いかに頑なで聖霊に逆らい、主なる神の御心に逆らい、罪を犯し続けたかを語りました。
 そして「あなたたちは自分たちの先祖と同じ罪を犯してはいけない。神に逆らい、神の恵みを拒んではいけない」とステファノは訴えかけたのです。
ステファノが語ったところによりますと、モーセ、同胞のイスラエル人を打っているエジプト人を打ち殺した時、モーセは40歳でした。(使徒言行録7章23節)
 そしてさらに、それから40年経った後、柴の燃える炎の中で、天使がモーセに現れたと(今日の聖書箇所)、ステファノの説教の中には記されています(使徒言行録7章30節)。

 ですから、今日の聖書箇所で、モーセは80歳だったということになります。つまりモーセは40年間、ミディアン地方という彼にとっては異国の地で、義理の父の羊の世話をするという生活を送ったのです。
 王宮での生活からいきなり羊を飼う生活への変化はモーセにとっては、大変辛い経験であったと思います。
 しかし羊飼いとしての生きるその40年間は、それから神に選ばれイスラエルの民たちの指導者、神の言葉を預かる預言者となり、出エジプトを導くことになるモーセにとって、必要な成長の過程であったとわたしは思います。
 王宮での豪華な、おそらく贅沢な何不自由ない生活から一転しての、羊飼いとして人生は、モーセに後に民の指導者となるために必要な忍耐力、そして自分自身でなく神を頼ることを学ぶ年月でもあったのではないでしょうか。
 ですからわたしたちも、今の苦しみは、今の自分の成長のため、あるいは将来自分に与えられる大切な責任を果たすための力をつける過程だと、信じることができます。

 モーセが羊の群れを飼っていたある時、その群れを荒れ野の奥へ追っていき、神の山ホレブに着きました。
 その時、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れました。そしてモーセが見ると、柴は燃えているのに、その柴が燃え尽きないという不思議な様子を見ました。
モーセは「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言って、モーセはその柴に近づきました。
 そこで神がモーセに語りかけます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5節)
 これは、神は人が近づいていけるようなお方ではないことが表されています。人が神に近づき、その御顔を見て、その存在を理解するということは不可能なのです。
まず神は私たちに比べて、あまりに大きく偉大なお方であるからです。神はあまりに偉大で、私たちの能力でそのお方の本質や存在を完全に理解することはできないお方です。
そして次に、神と私たちとを隔てている原因である、わたしたち人間の罪があります。
人は自分中心になり神の御心に逆らい、神から離れるという罪を犯したので、神を見て、神のご栄光をいただくことができなくなってしまったのです。
 しかし神は、7節以降で神ご自身が言われるように、苦しむご自分の民の声、叫び声を聞き、それを放ったままにしてはおかれませんでした。
 私たちの神はそのようなお方です。私たちがどれほど罪を犯して神から離れ、神に敵対し、また罪のために人同士で敵対しながら生きていても、神は私たち人が苦しみ叫び、痛むことを放っておくことはお出来にならないのです。
なぜかと言えば、それは神が、ご自身がお造りになった世界を愛し、またご自身がお造りになった私たち人間を限りなく愛してくださっているからです。
 “その痛みを知った” I am concerned about their suffering(7節)とは、知識として知ったということではなく、神がご自身の痛みとして人の痛みをお感じなった、心から憐れんでくださったということです。
 ただそのことを知識として知っているとか、ある程度理解する、というのではなく、神は私たちの苦しみ、痛みを全くご自身のこととして、その身に引き受けてくださったのです。

 それが新約聖書の中で記されるイエス・キリストの十字架の出来事です。
この世界を創造し、地上に生きるあらゆるものをお造りになった神が、私たちの苦しみ、痛みを、悩みをご自身のこととして知っていてくださるということがイエス・キリストの十字架によってはっきりと示されたのです。
 私たちはこの世では困難、苦難がありますが、私たちの苦しみをご自身のこととして引き受けてくださり、私たちの苦しみを完全に分かってくださっている神に、私たちはより頼みつつ、日々を生きていくことができるのです。
 ですから、わたしは一人ではない。苦しくても。~このことをイエス・キリストの十字架がいつも変わらず私たちに向けて示し続けてくださっています。その神の恵みにより頼んで、私たちは生きていくことができるのです。

神はモーセに、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました(10節)
 主はモーセの人生に計画をお持ちでした。なぜモーセが川から引き上げられ、そして王宮の生活から羊飼いの生活へと移されたのでしょうか。
それはモーセが神の召しを受けて、イスラエルの民を奴隷生活から救い出すという神の救いの計画の器として用いられるためでした。

 神は私たちそれぞれにご計画をお持ちです。神は愛と憐れみ、そして神の御心に基づいたご計画をもって、わたしたちをお造りになりました。聖書全体のメッセージが、そのように私たちに伝えるのです。
私たちに与えられた計画は、モーセの場合のように、「出エジプト」として聖書に記録されるような、そんな大きなことでは、おそらく、ないでしょう。
しかし、たとえそれが人の目には小さく、目立たない事であったとしても、神は私たちひとり一人の命に、すばらしいご計画をお持ちです。神が私たちにご用意してくださった、その計画を信仰によって私たちは見つけていきたいと願います。
「わたしがあなたをファラオのもとに遣わす」と神に言われたモーセは、そこで大変躊躇いたします。

モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と神に答えました(11節)
新しい道を踏み出そうとする時、たとえそれが神の御心だと分かったとしても、人は躊躇することがあります。不安になることがあります。”なぜ私ですか?”と言って、わたしたちは躊躇するのです。
モーセは神に直接言葉をかけられても、ファラオのもとへ行きイスラエルの民をエジプトから導きだすなどということが自分に出来るのですか、と恐れて、そのように神に問いかけたのです。

12節の神の言葉をお読みします。
「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
神がモーセに約束してくださいました。そして神は今の私たちに向けても約束してくださっています。「わたしが必ずあなたと共にいる」
神が必ず私たちと共にいてくださる~この恵みの真実が私たちを日々支えてくれています。神はわたしたちと、いつも共にいてくださいます。
神は、私たちが聖書を読む時だけ、あるいは教会での集会に参加している時だけ、わたしたちと共にいてくださるのではないのです。
神はいつも私たちと共にいてくださる~これが神の変わらぬ約束なのですから、わたしたちはいついかなる時も、この神の言葉(約束)の真実により頼んで生きることができるのです。
 いつもわたしたちと共にいてくださる神、日々注がれる神からの恵み、信仰の目によってそれらを目に止め、感謝と喜びの日々を歩んでまいりましょう。