2023年12月9日土曜日

2023年12月10日 主日礼拝(第二アドベント)

招詞  ヨハネの黙示録19章6節
アドベントキャンドルの点火~祈り
賛美  新生讃美歌149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
献金
聖句  イザヤ書52章7~10節
祈祷
宣教  「あなたの神は王となられた」
祈祷
賛美  新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷

主イエス・キリストの誕生を待ちわびる待降節(アドベント)の期間を今、私たちは過ごしています。今日は、アドベント第二の日曜日です。
 礼拝の初めに二本目のアドベント・キャンドルに火が灯されました。二本目のアドベント・キャンドルの火は、“平和”を表わします。
 一本目のアドベント・キャンドルの火は“希望”を表わします。イエス・キリストが私たちの世界に来てくださったのは、真の“希望”が私たちに与えられた出来事でした。
 その希望は、神が人となり私たちと共に生きてくださる、という希望です。私たちがその希望を信じたならば、もう何ものも私たちから取り去ることができない希望です。
 今を生きる希望と、将来への希望とがイエス・キリストを通して私たちに与えられました。神が私たちと共に生き、私たちと共に日々歩んでくださる、という確かな希望です。
 私たちは今日もこうして共に礼拝を捧げることで、今この時を私たちと共に生きて下さるイエス・キリストの希望を分かち合うことができます。私たちはそのことに本当に感謝をしたいと願います。
 
 今日のアドベント第二主日では、二本目のアドベント・キャンドルの火の意味である“平和”についての知らせを、聖書の御言葉から私たちは聞いていきましょう。
 今日の聖書箇所として、旧約聖書『イザヤ書』の52章7節~10節を私は選びました。
イザヤ書52章が書かれた背景としては、イエスラエルがバビロン帝国によって国を滅ぼされ、多くのユダヤ人たちがバビロンで捕囚としての生活を送っていた、“バビロン捕囚”の時代の終わりごろだと言われます。
 捕らわれの生活を送る民たちに、その捕囚生活が終わるという希望と喜びの知らせが知らされる様子が、今日の箇所には記されています。
 特に今、実際の戦争状態にある国や地域の中で、多くの人たちの日々の生活と命が脅かされ、多くの命が失われていることを思うと、私たちの心は痛みます。
人質となって捕らわれている人たちやそのご家族たちがおられることも思うと、なぜそのようなことが起こるのか、と私たちは疑問と憤りを覚えます。
 私は、「自分には何もできない」と言う無力感にも囚われます。皆さんはいかがでしょうか。しかし私たちが無力感に囚われるような時こそ、聖書が伝える平和に私たちは真剣に聞き、その平和を私たち自身が頂きたいと私は願うのです。
そして聖書を通して頂く真の平和を土台にして、私たちひとり一人が希望と力を与えられ、生き方と行動が変えられるならば、そこから世の平和は必ず実現していく、と私たちは信じてよいのです。

7節をもう一度お読みします。

 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

 ここでは、人々に、一つの知らせを伝える人(伝令者)のことが言われています。彼が伝えたものは、“良い知らせ”でした。
 ここでは、捕らわれの身になっている人たちに、彼らが待ちわびていた知らせが届けられるという希望が言われています。
 イスラエルの人たちが捕囚生活の中で待ちわびていた知らせは、解放の知らせであり勝利の知らせでした。
人々が長い間待っていた解放と救いの知らせが、その人を通して人々に告げられた、というのが今日の箇所が伝えることです。
私たちはここで、その人の“足が、いかに美しいことか” と言われていることにも注目したいと思います。
 
 ここでは、戦争の勝利の知らせを伝えるために遣わされた“伝令者”がイメージされています。彼は、その知らせを告げるために長い道のり、山々を行き巡りました。
今ならば、スマホでメッセージを送れば一瞬で、どんなに遠くにでもそれは伝わります。人が、手紙や知らせを直接携えて運ぶということは、これからさらに少なくなっていくのでしょう。
そのような時代に生きる私たちには想像することが難しいことですが、一人の伝令者が、長い道のり、おそらく何十キロ、あるいは何百キロの長い道を、山や谷を越えて行くことは大変な労力を要したはずです。
今日の箇所は、山々を行き巡るその伝令者の足を“美しい”といいます。実際には、山々を行き巡った伝令者の足は大変汚れていたはずにも関わらず、彼の足は美しい、というのです。
 それは、その知らせを人々に伝えるために必死に走る伝令者の働きと彼の心の思いを、主なる神がご覧になって、彼の足を“美しい”と表現しているのではないでしょうか。

 それは、一人の信仰者が、主の良き知らせ、救いの知らせを信じ、その知らせを携えながら、それを他の人にも伝えたいと願いつつ日々を生きる姿にも例えられます。
キリストを信じ、毎日を懸命に生きる者の姿が“美しい”と、言われているのです。
そして、そのように福音を信じて生きる者が美しいと言われるのは、彼が信じ携えている神の福音そのものが、限りなく美しいからです。
 聖書は、わたしたち人を“土の器”だと言います。新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』4章7節に次のように書かれています。

2コリント4章7節
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

私たちは“土の器”です。弱く脆く、また罪を抱えた者です。しかし、そのような土の器の中に、私たちは“福音の光”、”神の栄光を悟る光”を持っているのです。
 土の器である私たちを、内側から美しく輝かす福音という光を、私たちは豊かに頂いていきたいと願います。
 土の器である私たちを福音の光によって輝かせて下さり、そしてそんな私たちを“美しい”と認めてくださるお方、主なる神に私たちは感謝をしたいと願います。
伝令者が伝えた知らせた内容は、“良い知らせ”であり、“平和”であり、“救い”でした。人々が待ち望んでいた解放の知らせでした。

クリスマスは、私たちに真の平和が神によって知らされた出来事です。クリスマスは、神から私たちに真の平和がプレゼント(贈り物)として与えられた出来事です。
 神から私たちに与えられた平和は、神の御子イエス・キリストが私たちの王に成るということによってもたらされました。
神の平和は、私たちがイエス・キリストを私たちの王として信じ、その王なるキリストを私たちの主としてお迎えすることから始まります。
 私たちがイエス・キリストを主であり、私たちの王であると信じ、キリストが私たちの心を支配なさる時、そこから神による平和が生まれます。
 キリストを私たちの心に迎え入れる時、まさに今日の箇所の9節に書かれているように、廃墟となっていた都エルサレムに、人々の歓声と喜びの声があがるのです。
廃墟となっていたエルサレムとは、空虚な思いで満たされていた私たちひとり一人の心の姿ではないでしょうか。
 空虚な心を何かで満たそうとして、私たちは色々なものを求めると思います。しかし、この世の中の何一つとして、私たちの心の空しさを、完全に満たしてくれるものはありません。
イエス・キリストの福音以外に、私たちの空しさが満たされ、喜びで心が満ちることはありません。
 しかしイエス・キリストを王として信じ、キリストが私を(私たち)を支配するお方だと認めて生きる時に、私たちの心は大きな喜びで満たされます。

 9節後半には次のように書かれています。

 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

 主イエス・キリストは、私たちの心を無理やり支配し、私たちから自由や尊厳を奪うお方ではありません。
 むしろ主イエス・キリストは私たちが自らキリストを王として迎える決心をすることを促し、またご自身を通して真の自由と尊厳を私たちに与えようとしてくださるお方です。
  キリストを通して、私たちは自分が“土の器”でしかないことを知ります。そしてその土の器である私たちが、神によってどれほど愛され、大切なものとされているのかを、キリストを通して私たちは知らされます。
 新約聖書の『マタイによる福音書』で、イエス様がお生まれになった時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王にたずねました。
 学者たちのその言葉も、「キリストこそが真の王、王の王である」ということを表しています。当時ユダヤを治めていたヘロデ王は、あくまで人間としての王でした。
 しかし、イエス・キリストは神であり、全ての人がそのお方を信じ、従うべき真の王として私たちの世界にお生まれになったのです。
 私たちは、“キリストこそが王であり、私たち全ての者を支配なさるお方”ということを信じる、信仰の道を歩んでいこうではありませんか。

今日の箇所の最後の10節をお読みします。
10主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 私たちがイエス・キリストを主として、私たちを支配なさる王として信じる時、私たちを通して神の御腕の力が、世の人々にも明らかとなり、伝えられていきます。
 キリストが私たちを支配なさる時、神の平和が私たちを支配し、その神の平和が私たちを通して世へと拡がるのです。
 神の平和で私たちが満たされれば、私たちはきっと互いを受け入れ合い、互いを愛しあうでしょう。お互いの存在がお互いにとってかけがえのないものになるでしょう。
そしてやがて「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」という輝かしい希望も私たちには与えられるのです。
 希望の神、平和の救い主、イエス・キリストの神を心からあがめつつ、キリストの誕生を感謝する待降節の日々を、私たちは過ごして参りましょう。