2023年12月2日土曜日

2023年12月3日 主日礼拝

招詞 ユダの手紙1章21節
アドベントキャンドルの点火~祈り
賛美 新生讃美歌 148番 久しく待ちにし
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  詩編27篇11~14節
祈祷
宣教  「主を待ち望め」
祈祷
賛美  新生讃美歌 492番 わが身の望みは
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷


 今日から、キリスト教会では「アドベント」Adventという期間に入ります。
 アドベント(待降節)は、クリスマス前の約4週間(今年は、12月24日が日曜日なので、三週間)の期間を指し、イエス・キリストの誕生を私たちが覚え、感謝し、キリストの誕生を待ちわびる期間です。
  イエス・キリストは今から約2020年前に、イスラエル/ユダヤの地にお生まれになりました。お生まれになったユダヤの地で、イエス様は神の国の福音について人々に宣べ伝えました。
 やがて多くの人々がイエス様の教えを信じ、イエス様に従うようになりました。それはその人たちの生き方が変えられたということでした。
 イエス様を信じ、イエス様に従うということは、私たちの生き方が変わるということなのです。

  イエス様を信じ、イエス様に従うということは、自分の命、そして生き方の主導権をそのお方(イエス・キリスト)に明け渡す、ということであるからです。
  ですから、イエス・キリストを信じ、イエス様に従うということは、それ以前の生き方(自分が自分の人生の主導権を握っている生き方)から、神であるキリストが主導権を握る生き方へと変えられるということなのです。
 私がイエス・キリストを自分の主、救い主として信じ、クリスチャンになって生きようと決意した時、わたしは信仰のことや聖書のことを、完全に理解していたわけでは勿論ありませんでした。
 それでも、キリストを信じクリスチャンになるということは、自分の中心が自分ではなくなり、自分の指針としての確実な何か(それは、決して変わることのない神)を自分の中心に持つことになるのだ、ということだと私は理解しました。
  私たち自身の思いや感情は(あるいは信念のようなものでも)、自分を取り巻く環境や周りの人々からの影響などによって、いつでも変わる可能性がある、とても移り変わりやすいです。
  そのような“自分”を自分の中心、土台として持っている限り、人は安定した(霊的に)、平安な生き方をすることはできません。

 しかし自分の中心に神を置き、神をお迎えし、その神に従うのならば、私たちは神によって揺らぐことのない平安を頂くことになります。神は決して変わることのないお方だからです。
自分中心から“神中心”の生き方へと変えられること、それがキリストを信じ、キリストに従って歩む道です。
 自分中心ではなく、神中心/キリスト中心に変えられると、私たちはいつも祈りを通して神の御心を知ろうとします。
神こそがわたしたちにとって最善をご存知のお方だと信仰者は信じるので、私たちは神の御心が何であるのか、を祈りによって知ろうとするのです。

 アドベント第一主日の今日の礼拝の聖書箇所として私は詩篇27編11~14節を選びました。詩編27編は、ダビデによる祈りの言葉です。
 ダビデは、イスラエルの王様でしたが、王になる前にも、そして王になってからも様々な試練に会いました。
 ダビデは人として間違った選択、過ち、正しくない道を歩むこともありました。私たち誰もがそうであるように、ダビデも決して完璧ではなく、間違いも犯したのです。
 ダビデはそのような経験を通して、神の示される道こそが唯一正しい道、王として、そして信仰者として彼が進み行くべき道であることを知るようになったのでしょう。

 今日の箇所の最初の節(11節)前半に次のように書かれています。
主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。

 詩編の他のいくつかの箇所でも、ダビデはこのように“あなたの道を示して(教えて)ください”と願い、祈っています。
 ダビデ王は歴史上、イスラエルの人たちにとても尊敬され、敬われてきた人物です。キリスト者にとっても、ダビデはやはり重要な人物であり、信仰的に私たちが彼から学ぶことも多くある信仰者です。
 偉大な王、そして偉大な信仰者として尊敬されているダビデも、「主よ、あなたの道を示してください」と、神に祈り願っているのです。
ダビデは、神が示してくださる道こそが、自分にとって最善の道だと信じていたからです。
 私たちもダビデに倣(なら)い、神が示される道こそ私たちにとっての最善の道であると、信じることができるようになりたいと願います。
 そしてそのように信じた上で、“あなたの道をわたしに示して(教えて)ください”と熱心に神に私たちは祈るようにもなりたいと願います。

そのような祈りを繰り返して、そしてその度に道が示される信仰の経験を通し、“神は確かにわたしの祈りを聞いてくださる”と私たちは確信していくことができるからです。
 「平らな道(まっすぐな道)」とは、“神の前に正しい道”のことです。神の前に正しい道を私たちが行くには、神ご自身がその道を示してくださらねばなりません。
 神こそが何が正しく何が善であるかをご存じのお方であり、私たちは神から示されなければ、何が真に正しいのかを自分で判断することはできないからです。
 私たちは、自分としては正しいと思うことをしたとしても、それが他の人の心を傷つけたり、良くない結果を産んだりすることがあります。私たちがそう意図しなくても犯してしまう罪も存在します。

 ですからわたしたちは、自分がそのように不完全で、常に罪を犯す可能性を持つ者であることを自覚し、謙虚に神に向かって「あなたの道を私に示して下さい。あなたの道へと導いてください」と祈らなくてはならないのです。
 私たちはひとりでもそのように祈りますし、また信仰の家族である教会としても、私たちは心を合わせて一緒に、そのように祈りたいと願います。
「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」と私たちはぜひ一緒に祈ろうではありませんか。
 主なる神を信頼し、「主は祈りを必ず聞いてくださる」という確信が深まるほど、私たちは信仰による希望を持つことができるようになります。
 主である神が私たちの祈りを聞いて下さるのですから、それ以上に力強いことはありません。
そして私たちには、神への信仰を通して、希望が与えられます。13節に次のように書かれています。

13わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。

 神から来る信仰の希望とは、私たちが生きるこの地上にあって、主の恵み(主の善=英語訳)を見る、という希望です。
 それは、神が造られたこの世界で、私たちは神が与えて下さる善き物、神の素晴らしさを見て、それを理解し、希望を持って生きることができるようになるという希望の確信です。
 神への信仰がなく、自分中心で私たちの身の回りや社会、世界を見るならば、“自分の思い通りにならない”という不満ばかりが、いつも募るでしょう。 
 しかし神から来る希望の信仰を通して私たちが私たちの身の回りを見るのならば、主の恵みがいかに多くあるかということを、私たちは認めることができるようになるのです。
  主は私たちに善き物を私たちに与えてくださるお方ですから、私たちは私たちの頑なな自分中心の思いのために、神が私たちに与えてくださる善き物を決して拒むようなことがないようにしたいと思います。

 信仰の希望をもって、私たちが生きるこの地上の世界に、主の恵みが溢れていることを私たちは喜びたいと願います。

11節の前半をもう一度お読みします。「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」
 遠い昔、信仰者ダビデがこのように祈ったことに、主なる神は応えてくださいました。おそらくダビデ自身も想像もできなかったほど、素晴らしい方法で神はダビデのこの祈りに応えてくださったのです。
 神は、御子イエス・キリストを、私たち全ての者の道として、命と真理の道としてこの世界に贈ってくださいました。そのようにして、主はダビデの祈りに応えてくださったのです。
 イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことはできない」とおっしゃいました(ヨハネによる福音書14章6節)

 ダビデが祈ったように、神は神ご自身の道、真理の道を私たちにはっきりと示してくださったのです。神の御子イエス・キリストという道こそが、唯一真の真理の道であることがわたしたちに示されました。
 キリストにこそ私たちは従い、キリストの示す道を私たちは歩んでいかねばなりません。キリストこそが唯一正しい道なのです。
 私たちにとって何が最善であるかをご存知であるお方が、主イエス・キリストを通して私たちを導いてくださる平らな、正しき道へ向かって、私たちは歩んでいきたいと願います。

 今日の箇所の最後の14節をお読みします。
14主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
 「主を待ち望め」~この言葉を今日のメッセージの題に私はいたしました。アドベント(待降節)の今、私たちは新たな思いと期待をもって、主を待ち望みます。
主を待ち望むとは、私たちが日々信仰を新たに、自分中心の心を悔い改めて、神中心の生き方へと変わる決意をすることです。
自分の中心に居座ろうとする自分を心から追い出し、イエス様をいつも心の中心にお迎えする、という決心です。
そのように私たちが心から願い祈るとき、主は必ずいつも私たちの所へ来て下さり、そして私たちの心の中心に住んでくださるようになるのです。
私たちは心合わせて神に祈り、イエス様がいつも私たちの中心にいてくださいますようにと祈りましょう。
私たちはイエス様に私たちに中心にいていただくことにより、イエス・キリストが私たちに示して下さる道を、歩んでいく者でありたいと願います。
私たちは、日々主に導かれて、キリストにある希望の道、信仰の道を歩みつつ、このアドベントの期間を過ごしてまいりましょう。