2023年12月30日土曜日

2023年12月31日  主日礼拝

前奏
招詞 詩編138篇8節
讃美 新生讃美歌 618番 主のためにわれは生く
主の祈り
献金
聖句  ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節
宣教  「互いに重荷を担いなさい」
祈祷
讃美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏


 今日は2023年12月31日です。今年最後の日となりました。一年の最後の日(大晦日)が日曜日なので、私たちはこうして主日礼拝を捧げながら、この日を過ごしています。
 今年2023年は1月1日(元旦)も日曜日であり、主日礼拝から私たちは新しい年をスタートさせました。
 ですから今年は、文字通り礼拝で始まり礼拝で終わるという一年でした。一年を、主なる神を礼拝することで始め、また主を礼拝することで年を閉じることができ、わたしは大変嬉しく思います。
 今年一年も、わたしたちそれぞれに、私たちの教会にも、振り返って一つ一つを思い起こしてみれば、様々なことがあったと私は思います。

 大変な事、辛い事、また嬉しいこと、思いがけないこと、色々あったのではないでしょうか。
 私個人のことを話させて頂ければ、春に長男が就職で家を出て、社会人生活を始めたことが、やはり大きな出来事であったと思います。
 彼は遠くにいますが、最初に想像していたほど、それほど寂しさとか、大きな心境の変化のようなものを自分の中に感じることは、私にはあまりありませんでした。
 今は連絡自体は簡単にできますので、それほど距離感を感じずにすむというのも、そのように感じる理由であるかもしれません。

 しかし、彼のことを覚えて、やはりわたしは祈ります。そうすると、私たちがどこへいても私たちを守り導いてくださる、イエス・キリストの神にお任せできるのだ、という信仰による安心感が与えられます。
 それはとても幸いなことです。しかし今、私たちの世界では激しい戦争が続いている国や地域があり、本当に多くの尊い命が失われ続けています。
そのような現実の中、「神の愛」とか「神の恵み」、「神がいるから大丈夫だ」と言うことに、私は全くためらいを感じないのかと言えば、それは嘘になるかもしれません。

 しかし、主イエス・キリストは確かに私たちの世界にお出でになりました。キリストは人としてこの世界にお生まれになりました。先週は主のご降誕を祝うクリスマス礼拝を私たちは持ちました。
 キリストはこの世に来られて、私たち人間の罪を贖ってくださったのです。本来私たちが受けるべき罪の報いを、イエス様が代わってその身に受けてくださったのです。

 テモテへの手紙一 (1 Timothy) 1章15節に次のように書かれています。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

私たちはイエス・キリストによって救われたのです。ですから私たちは、イエス様によって実現した、罪の赦しという救いを根拠に、やはり希望を持ってよいのです。
 今年1年を通しても、私たちが主の御愛に守られて、共に教会生活と信仰生活を送ることができたことを私は心より神に感謝いたします。
今年度2023年度、私たちの教会は「愛の奉仕」という標語の下に、教会生活を送っています。
教会の皆さんご自身の中から「神に仕えたい。具体的には教会での奉仕を通して神に仕えたい」という願いが起こり、「愛の奉仕」という標語が選ばれました。
聖句はガラテヤ書5章13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい 」です。
 ガラテヤ5章1節には「キリストはわたしたちを自由にしてくださった」と書かれています。イエス・キリストは私たちを罪から解放してくださいました。

またキリストは、律法を守ることによって、つまり人の努力によって得られる赦し、という決して実現しない考え(その呪縛)から私たちを自由にしてくださいました。
罪の赦し、神の救いはただ神の愛と恵みによって無償で私たちに与えられるのです。それを信じることが私たちを真に自由な者とするのです。
 しかし、それほどの自由を与えられた私たちでも、その自由を間違って用いてしまうなら、“肉に罪を犯させる”ことになってしまう、とガラテヤ書は言うのです。
“肉に罪を犯させる”とは、互いに仕えるのではなくて、逆に互いに傷つけあったり、互いに協力して力を合わせるべきなのに、逆に互いに重荷を負わせてしまうということです。

 そうならないために、私たちはどのようにしたらよいのでしょうか。そのことを、今日の聖書箇所から私たちは聞いていきたいと願います。
 今日の聖書の箇所は、年間聖句が採用された5章に続く、ガラテヤ6章の始めの部分です。
今日の箇所は最初に次のように書かれています。
兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。
 これは特に同じ信仰の共同体に属する者同士、同じ教会に属する者同士について言われています。それは、信仰の家族、信仰の兄弟に対して私たちが負っている義務です。
 クリスチャンであっても、罪に陥ることがあり得ます。意図しなくても罪に陥ることがあります。間違った道へ行ってしまうことが、私たち誰にでもあります。
そのような他者(信仰の家族)に対して、私たちはその人を柔和な(優しい)心で正しい道に立ち帰らせる(英語訳では“その人を元に戻す(修復する)”)義務を負う、と今日の箇所は言うのです。

正しい道とは、主なる神を第一とし、その方に従って歩む信仰の道、すなわちイエス・キリストの道です。
キリストの道を歩む私たち信仰者ひとり一人は、依然として罪人で間違いを犯す存在であっても、それでも私たちが歩むべき道ははっきりしているのです。
キリストと言う正しい道の上を私たちは歩もうと日々努力するのです。
 しかし、私たちはどれほど気をつけていても、わたしたちが抱える弱さ、自己中心さ、傲慢さなどから、罪を犯してしまいます。
そのような時、信仰の家族同士は、“正しい道”へ立ち帰るように互いに助け、促し、励まし合うことができるのです。
 正しい道(イエス・キリストの道)とは、具体的には、共に神を礼拝し、主の体を分かち合い(主の晩餐)、主の御言葉を分かち合う、信仰によって互いに支え合うという信仰者同士の共なる生活です。

 そして4節に書かれているように、私たちはそのように神を礼拝することを通して、自分自身をも吟味するのです。
 神の前に自分自身を真剣に吟味することで、私たちは自分の中には、神の愛と赦しに値するようなものは何もないことに気づかされます。
私たちは、“自分の信仰は深く、強いから大丈夫”だと、どれほど自信を持っていたとしても、自分だけで信仰を持ち続け、成長し続けることは決してできません。
私たちだれもが罪に躓き、罪を犯すからです。ですから私たちはお互いに、正しい道=イエス・キリストを主と仰ぎ、自分を吟味し悔い改める、神の赦しを頂いて生きる道へと、立ち帰ろうとお互いに励まし合い続けたいと願います。

今日の箇所の2節に次のように書かれています。
 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
私たちは互いの重荷を担い合うようにとここで命じられています。正しい道へ立ち帰るようにお互いに励まし合うこと、そして他者の重荷(罪や弱さということでしょう)を覚えて、それを自分の事として担おうと努力することが私たち信仰者には求められるのです。
私たちは誰も自分の罪を自分だけで担いきることはできません。しかしもし私たちがそれをお互いの重荷として、互いに担い合うならば、その重荷は軽くなります。
 そして根本のところで、私たちの罪を赦し支えてくださっているイエス・キリストが私たちと常に共におられることを私たちは知っています。

 イエス様の一番弟子であったペトロは、イエス様と一緒にいる時に、「主よ、御一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」とまで言っていました(ルカ22章31節~ )。
しかしイエス様は分かっておられました。ペトロが彼の弱さと罪のために、最後にはご自分を裏切って逃げてしまうことをイエス様は分かっておられたのです。
イエス様は、ペトロの裏切りを見越して、ペトロに次のように言いました。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)
 イエス様は、ペトロに対して、きっと次のように言いたかったのでしょう。”わたしはあなたの罪を既に赦した。私があなたの罪を担った。

あなたの信仰が無くならいように私は祈った。だから、次はあなたが自分の兄弟たちを力づけてやりなさい”
 ペトロへ向けられたイエス様のそのお言葉と思いは今の私たちにも向けられています。
私たちが色々なことに失敗し、あるいは絶望したりして、信仰がなくなりそうな時にも、“あなたの信仰がなくならないように”とイエス様が今の私たちのためにも祈ってくださっているのです。
 イエス様のそのお言葉とイエス様自身の祈りが、私たちにはあるのですから、私たちは恐れることはありません。イエス様により頼みつつ、私たちは正しい道に、常に立ち帰りたいと願います。

今日の箇所の最後の節には次のように書かれています。
 10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
 私たちが同じ教会に属し、共に信仰生活を送っているのは、本当に不思議な神様の御采配、ご計画によります。
 神の導きによって神の家族とされた私たちは互いに、重荷を担い合い、そしてできるだけの善を行おうと、ここで促されます。
 私たちがこうして一緒にいる時間も、やはり限りがあります。地上での出会い、時間は永遠には続きません。
それは、互いに重荷を担い合うことができる最適なタイミングがある、という意味でもあるでしょうし、また私たちは人間ですから、いずれ何らかの形で別れる時が来る、と言う意味でもあると思います。
ですから、私たちがこうして一緒にいられる、共に信仰生活ができることを、いつまでも続く当たり前のことと思わず、神が与えてくださった私たちの交わりを大切にし、その中でお互いに仕え合おうではありませんか。
イエス・キリストの信仰によって結び付けられた私たちが、互いの重荷を担い合い、赦し合って歩む、そんな共同体としてさらに成長することを目標に「愛の奉仕」を献げ、また明日から始まる新しい年2024年も歩むことができればと私たちは願います。