2024年3月3日日曜日

2024年3月3日 主日礼拝

前奏
招詞  エゼキエル書11章9節
讃美  新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて
祈りの時
主の祈り
讃美  新生讃美歌134番 生命のみことば たえにくすし
献金
聖句  ルカによる福音書5章33~39節
祈祷
宣教 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」
祈祷
讃美  新生讃美歌 656番 きみの賜物と
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


今日の聖書の箇所で、人々がイエス様にある質問をします。
「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
ヨハネとは“バプテスマのヨハネ”です。バプテスマのヨハネと言われた人は、イエス様に洗礼(バプテスマ)を授けた人でした。そのヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の弟子たちは、度々断食をし、お祈りをしていました。

しかしイエス様の弟子たちは、同じ神を信じていながら、それほど断食をしているようには見えなくて、むしろいつも飲んだり食べたりしているという印象を、そのように質問した人たちは持っていたようです。
今日の箇所の前の箇所には、レビという徴税人が、収税所に座っていたところ、イエス様に「わたしに従いなさい」と呼びかけられて、イエス様の弟子になった話が書かれていました。
レビはイエス様にすぐに従い、そして彼は自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催しました。イエス様に呼んでいただき、弟子となったことがレビはとても嬉しかったからです。
そしてその宴会には、他の徴税人たちや他の人々も大勢招かれていました。
当時、徴税人は、ユダヤを支配していたローマ帝国に協力する者として、仲間のユダヤ人たちからは裏切り者として疎まれ、憎まれる存在でした。徴税人は“罪人”と同様にさえ見なされていました。

 ファリサイ派や律法学者と言われた、聖書の戒律を厳密に(自分たちなりの)解釈をして、その通りの生き方をしようとしていた人たちが、罪人と言われた人たちと一緒に食事をしているイエス様を見て、次のように疑問を述べました。
 「なぜあなたたちは(イエス様と弟子たち)、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか」(ルカ5章30節)
 ファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、徴税人や罪人とは一緒に食事しない、一切交際しない、と決めていました。罪人と一緒に食事することなど、彼らには考えられなかったのです。
 ですから、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか?(そうしないことが、正しいのに)」と疑問を述べました。
 イエス様は彼らに、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と答えました。
 そう言ってイエス様は、“自分たちは正しい”と思い込んでいるファリサイ派や律法学者たちに「あなたたちも含めて、全ての人が神の癒しと赦しを必要としている罪人だ」ということを教えようとされたのです。

 今日の箇所では、イエス様と弟子たちが徴税人や罪人とも一緒に食事をするし、断食もあまりしているようには見えないので、人々が心の中でイエス様たちのことを「この人たちは信仰的に劣った人たちだ」と思っていたのかもしれません。
 実際は、イエス様と弟子たちも断食をしていました。旧約の時代から、神を信じる人たちは、悲しみや苦しみ、また悔い改めの気持ちを表わすために、断食をしていました。
 イエス様自身も断食をされたことが記されている箇所が福音書の中にあります。それは、イエス様が公の伝道活動を始められる前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時のことです。

 ルカ福音書4章1~2節(マタイ4章にも、それが書かれています)に次のように書かれています。
1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

イエス様は40日間の断食をして、敢えてご自分をとても苦しい状態に追い込んで、悪魔の誘惑に、神の言葉(神の力)によって対抗しようとされたのです。
 イエス様は、ご自分の弟子たちにも、断食することを禁じたりなどはしておられませんでした。
 ただ、イエス様は断食をすることに関して、次のような注意を弟子たちに与えました。

マタイ福音書6章16~18節
16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

断食には本来、食べ物を絶ち空腹の状態になることで、苦しみや悲しみ、また悔い改めを表わし、また空腹を通して、霊的に神の力を一層頂く、神への信頼を高める、という目的があったはずです。
 ところが、イエス様が指摘しているように、そのような霊的な目的から外れて、断食をすることが、“自分は敬虔で、信仰深いということを人に印象付けるためのパフォーマンス”になっていたのです。
 イエス様が“偽善者hypocrites”と言ったのは、イエス様が生きた当時のごく一部の特殊な人たちだけでなく、実は私たち誰もがそのような偽善者になり得ることを、私たちは心に留めなくてはなりません。
 自分自身を誇りたい、人から認められたい、という欲のために、私たちは自分の信仰さえも利用してしまう者であることを、今日の箇所から私たちは学びたいと願います。
 断食も、祈りも(イエス様は、別の箇所では、祈りについても偽善者のように言葉を多くして人前で祈らないように、とおっしゃっています)、神との関係を深めるための行為であり、決して人に自分の信仰深さを見せるための手段ではありません。
 イエス様は、断食や祈りの本来あるべき姿を弟子たちに教えました。ですからイエス様は断食自体を禁じたりは決してしていませんでした。

 しかしイエス様の弟子たちは、ヨハネの弟子やファリサイ派の弟子たちほどには、頻繁に断食をしていないように見えたので、人々は「なぜあなたの弟子たちは断食しないで、飲んだり食べたりしているのですか」と聞いたのです。
イエス様は次のようにお答えになりました。34~35節です。

34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

 イエス様は譬えで答えておられます。花婿というのはイエス様ご自身のことです。
救い主イエス・キリスト、神であるそのお方が自分たちと共にいてくださるという喜びを、人々が本当に知っているかどうか、とイエス様はそこで人々に問いかけたのです。
私たちの罪を赦し、私たちと共に生きて下さる神がおられる(共に食事をしてくださる)、という喜びを前にしたら人はその時には、人は決して断食などはできず、むしろ盛大な宴会を開くものだ、ということです。
つまり、ここで問われていることは、「あなたがたは断食をしない、なぜか」と言いながら他者の信仰姿勢に疑問を投げかけるような人自身に、「あなたには本当に信仰の喜びがありますか」とイエス様は問いかけたのです。

その問いかけは、まさに今の私たちひとり一人に向けられています。時には断食もして、神からの霊的な養いを頂くことも意味があることです。
しかし、信仰の基盤として“神が共にいてくださる”、“イエス・キリストがこの私のために死んでくださったほどに、わたしは神に愛された”という喜びが本当にありますか、という問いかけを、私たちひとり一人が今一度真剣に受けとめなくてはなりません。
神のその呼びかけに、キリストにある最高の喜びを、私たちは今一度覚え、心からの感謝と喜びを神に献げようではありませんか。
 しかし、“やがて花婿が奪い取られる時”、すなわち主イエスが私たちの罪を背負って、私たちの代わりとなって十字架にかけられて死ぬ時がきます。
その時は、キリストの弟子たちは、心からの悔い改めである断食をも献げるでしょう、とイエス様はおっしゃいました。

 今私たちは、受難節(レント)の期間を過ごしています。主イエス・キリストが十字架への道を歩まれたその苦難を覚えて(実際に断食をするかどうかは別にして)、私たちは感謝と悔い改め(心を神に向ける)の時を過ごしていきましょう。
 36節以降で、イエス様はぶどう酒と革袋のたとえ話をしています。「誰も新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない」
 新しい布は、洗った時に、生地が縮みます。ですから、新しい服から切り取った布で古い服に継ぎを当てると、新しい服も無駄になりますし、洗った時にその布が古い服を引き裂いて、その古い服も駄目にしてしまうのです。
また新しいぶどう酒は発酵する時の勢いで古い革袋を引き裂いてしまう、という例もイエス様は挙げます。(革袋にぶどう酒を入れるという習慣がない私たちには、感覚的には分かりにくい譬えですね)

 この例えの意味は、イエス様は、全く新しい生き方と命を人にもたらすお方であり、イエス・キリストを信じる者は、イエス様に出会う前の古い自分のままではいられないと言う意味です。
古い生活スタイルを維持したまま、キリストの命を頂くことはできない、ということです。
 イエス・キリストを自分の中に受け入れると、自分の中心が自分ではなくなります。
自分の中心が自分であるならば、私たちは常に自分の正しさや自分の有能さを人に誇ることで、自分の価値を見いだそうとするでしょう。
 ですから、祈りや断食という信仰の行為さえも、自分を誇り自分を人に見せびらかす手段にしようとしまうのです。

 しかし、イエス・キリストを自分の心の中に受け入れ、キリストを本当に自分の中心とするならば、私たちはもう自分自身を誇ろうとする根拠を失うのです。そんなことをする必要がなくなるからです。
 キリストこそが崇められればよいのですから、キリストを信じる信仰者は、自分の行いや自分の能力を誇示することで、自分の存在価値を見いだそうとは決してしません。
 そうなれば、祈りも断食も、また私たちがこうして捧げている礼拝も、心からの喜びと、感謝の行いとなるはずです。その喜びは信仰の光となり、きっと私たちの周りをも照らすものとなるでしょう。
 私たちがキリストにある新しい命を喜んでいただいているのならば、私たちの献げる礼拝も感謝と喜びが溢れた礼拝となるはずです。そしてそのような礼拝には、自然と人々が引き寄せられて来るはずなのです。
 私たちは、イエス・キリストに出会い、キリストを信じ、キリストに心の中に住んでいただくことで、もはや古い自分のままでいることはできません。
 むしろ、主イエス・キリストによって私たちの古い“自分”という“古い革袋”は、打ち破られたのです。
キリストを中心とした生き方、キリストに導いて頂く新しい命の道を、私たちは歩んでいこうではありませんか。