2024年3月9日土曜日

2024年3月10日 主日礼拝

前奏
招詞 テサロニケの信徒への手紙一 5章9節
讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美 新生讃美歌 105番 くしき主の光
献金
聖句 出エジプト記4章18~31節
祈祷
宣教 「エジプトへ戻るモーセ」
祈祷
讃美 新生讃美歌 255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

神がモーセに現れて、エジプトで奴隷生活を送りながら苦しんでいる同胞のイスラエルの民たちを、エジプトから導き出しなさいと、命令されました。
 そのころモーセは、ミディアンという地方で羊飼いとしての生活をしていました。約40年間モーセはミディアン地方で羊飼いとしての生活をし、年は80歳になっていました。
モーセは神の命令に従うことを何度も躊躇しましたが、神はモーセに数々の徴(しるし:奇跡)を見せて、イスラエルの民たちや、エジプト人たちもモーセの言うことを信じるようにと全てを備えてくださいました。
 そしてモーセは、ようやく神の言うことを受け入れ、エジプトへ行き、イスラエルの民たちを救い出すという神の御計画に仕えることを決意しました。

 モーセがそのような決心をして、最初にしたことが今日の聖書の箇所(出エジプト記4章18~31節)に書かれています。
モーセは、まず自分のしゅうと(モーセの妻の父)のエトロに「エジプトへ行かせてください」と言ったのです。
モーセは、ミディアン地方を離れてエジプトへ行く前に、そのことを初めに彼の義理の父親に打ち明け、彼の理解と許可を求めたということです。
モーセとエトロの出会いは、次のようなことでした。モーセは最初エジプトを離れてミディアン地方に来た時、井戸の傍に彼は座っていました。そこへ羊の群れに水を飲ませるために、ある祭司の7人の娘たちがやってきました。(出エジプト2章)

そこで羊飼いの男たちが、娘たちを追い払おうとしたので、モーセがその女性たちを救いました。
その娘たちの父がミディアン地方の祭司であるエトロでした。(最初彼の名前は、なぜかレウエルReuelと2章18節には書かれています。彼はレウレルとも呼ばれていたのかもしれません)。
モーセは、エトロのもとに留まる決心をしたので、エトロが娘のツィポラをモーセと結婚させました。
モーセが、神から「エジプトへ戻って、イスラエルの民たちを救い出しなさい」と言われた時、モーセはまず、同胞のイスラエルの人たちが自分の言うことを信じないだろう、と言って心配しました。

そしてまた、エジプト人たちも自分の言うことを信じないだろうとモーセは思い、躊躇していました。
しかし、今日の箇所の前までで、モーセが自分がエジプトへ戻ることに関して、義理の父親のエトロは何と言うだろうか、と心配していたことについては何も書かれていません。
しかしモーセは、今日の箇所の中で、「エジプトへ戻る」という決意を、最初に義理の父親エトロに伝え、彼の許可と理解を求めたのです。
モーセにとっては、義理の父親エトロは、とても大切な存在、もしかしたら肉親の父親同然の存在になっていたかもしれません。
エジプトから言わば、流れて逃げ出してきた自分を引き受け、世話をしてくれた、という恩義もモーセはエトロに対して感じていたのでしょう。

 モーセは、神に命令され、そして神によって不思議なしるし(奇跡)を見せられ、自分がエジプトへ遣わされていくことは確かに主なる神の意志だという確信がありました。
それでもなお、モーセは義理の父エトロにまずそのことを伝え、彼の理解を得て、エトロによって送り出して欲しい、と願っていたのでしょう。
モーセは「神に言われて、わたしが決めたのだから、義理の父親の言うことなど関係ない」とは思わなかったのです。
血のつながりはなくとも、それほどの絆がモーセとエトロの間には築かれていた、と言ってよいと私は思います。

 教会では、教会員同士、クリスチャン同士のことを“兄弟姉妹”と呼び合います。それは同じイエス・キリストの神を信じる者同士は皆が神の子供であるという信仰、そして私たちは同じ信仰によって結ばれた神の家族である、ということを表わします。
 私たちが今、同じ教会で出会わされている、信仰の家族とされているのも、モーセと義理の父エトロが出会わされたように、それほどに不思議な神の導きによる出来事です。
 そのようにして出会わされ、神の家族とされた私たちが、お互いに信仰の交わりと分かち合い、そして励まし合うことができる関係を少しでも深めていくことができればと私は願います。
 「エジプトに行かせてください」とモーセに言われたエトロは、モーセにたった一言「無事で行きなさい“Go, and I wish you well.」と応えました。たった一言ですが、義理の息子の平安を心から願う、エトロの気持ちがよく表れている一言であると思わされます。
 「無事で行きなさい」の一言の背後に、エトロが、モーセがこれから行こうとしている道を覚え、祈っている姿が想像されます。
 私たちも信仰者同士の繋がりの中で、お互いを覚えて祈り合うことができる、平安と心強さの中で日々を送ることができます。

 モーセは、エトロに送り出され、そして19節に書かれているように、主から「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった」との言葉を頂きました。
 そしてモーセは妻と子供をろばに乗せ、エジプトへ向かいました。
 今日の24節から26節には、大変奇妙な出来事が記されています。妻とこどもを連れてエジプトへ向かって旅立ったモーセを、途中で神が殺そうとした、というのです。
 神の言葉に従いエジプトへと向かったモーセをなぜ、いきなり神が殺そうとされたのか?その意味合いは、私たちには分かりません。
 ある解釈としては、モーセが息子に神の民であるイスラエル人としての徴(しるし)である割礼を施していなかったのが理由であると、言われます。
 『創世記』で、主なる神がアブラハムを召して、アブラハムは生まれ故郷を離れて神の示す約束の地へと旅立ちました。
 創世記17章で、神はアブラハムに「あなたは多くの国民の父となる」と告げ、アブラハムと彼の子孫も主の契約(戒め)を守るようにと命じました。
 その一つがイスラエルの民の男子が受ける割礼でした。それを一つの徴(しるし)として、神の民イスラエルと他の民たちとが区別をされたのです。
 モーセは長くミディアン地方に住み(また幼少期から成人するまでは、エジプトの王宮で育てられたので)、イスラエルの民にとって大切なこと、主なる神との契約について、その大切さについての理解が浅かったのかもしれません。

 神は(それにしても、モーセを殺そうとは、私たちの理解を越えた厳しさですが)、モーセ自身もイスラエルの民であり神の子であること、そして彼の子も神との契約とその恵みの中に生かされている者であることを思い起こさせようとしたのではないでしょうか。
 そこでモーセの命を救ったのは、何と妻のツィポラでした。ツィポラが息子の包皮を切り取り、割礼を施したことで、主はモーセを放されました。
 モーセの妻が、そこでモーセの命を救う役割を果たしたということです。もしツィポラがいなければ、そこでモーセが死んでいたかもしれない(おそらくそうなのでしょう)、と思うと、女性であるツィポラが果たした役割の重大さが、改めて私たちに知らされます。
 モーセの妻であり、女性であったツィポラは、当時の文化、風習では女性であるがために、非常にその立場は弱かったと思われます。
 しかし聖書は、ツィポラの咄嗟(とっさ)の判断と行動力が、後にイエスラエルの民たちをエジプトから導き出すという偉大な働きをしたモーセの命を救った、という大変重要な出来事を伝えているのです。
 モーセに比べ、妻のツィポラはその役割が小さく、重要でない、脇役のような存在では決してなかったのです。
 イエス様が話された有名な譬え話の一つに、一匹の迷い出た羊の話があります。
 ある人が100匹の羊を持っていて、もし一匹が迷い出ていなくなったら、その人は99匹を山に残しておいて、いなくなった一匹を見つかるまで探す、という話です。
 その人とは神様のことです。神は“100匹のうち1匹ぐらい、大切ではない”とは決して思われないお方です。

そのようなお方が私たちの神です。私たちひとり一人の存在も、そして私たちが果たすことができる役割も、神の前には等しく尊く大切なものだと、私たちは信仰によって信じることができます。
 私たち誰もが、神の前にかけがえのない存在です。今の私たちの教会の群れの中でも、誰もが等しく重要な役割を(たとえ、人の目にはそうは見えなかったとしても)神から託されている、ということを私たちは覚えたいと願います。
 ツィポラによって命を救われたモーセは、その次に荒れ野で、(神の山で)兄であるアロンに神の導きによって出会わされます。
 「話すのが苦手なあなたに代わって、兄弟アロンをあなたに私が遣わす。彼(アロン)に話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい」と神は既にモーセに言っておられました(4章15節)
そしてその通り、モーセはアロンに会うことができました。そして神の言葉の持つ力強さ、神の言葉は真実であり信頼できるのだ、ということをモーセは彼の実際の経験を通して、また家族など他者からの助けを通しても、段々と学んでいくことができたのでしょう。

 モーセはアロンと共に出かけて、イスラエルの人々の長老たちを全員集めます。そこで神の言われた通り、アロンが、主がモーセに語られた言葉をすべて語り、しるし(奇跡)も見せました。
 そこで「民は信じた they believed」と31節に記されています。神の言葉がイスラエルの人々に伝えられ、そして彼らはその言葉を信じたのです。
 私たちは、ここまで出エジプト記の物語を読み進めてきて、モーセに伝えられた神の言葉がアロンの口によってイスラエルの人々に伝えられるまでに、どれほどの出来事があったのかを知っています。
 モーセは、最初とにかく恐れて、躊躇して、神の言葉を人々に伝える役割を自分が担えるとは信じませんでした。
しかし、忍耐強く、憐み深い神が、最後はモーセが神の言葉を信じ、また神が彼に与えて下さる他者の助けをも信じ、困難な使命を果たすために一歩を踏み出す勇気を、モーセに与えてくださったのです。
神の言葉はそのように力があり、神の言葉は確かに真実です。神の言葉が私たちに力と勇気と希望を与え、日々を歩ませてくださいます。
そのような神の言葉が私たちには豊かに与えられています。信仰の助け手、神の家族も私たちには与えられています。
ですから私たちは、自分自身の弱さや疑い深さに囚われてしまうことなく、神の言葉の強さと豊かさに信頼し、信仰の日々を歩んでいきたいと願います。