2024年3月30日土曜日

2024年3月31日 主日イースター礼拝

前奏
招詞 創世記2章7節
讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
献金
聖句  ヨハネによる福音書2019~23
祈祷
宣教 「聖霊を受けなさい」
祈祷
讃美 新生讃美歌 241番 この日主イエスは復活された
頌栄 新生讃美歌 674番 
祝祷
後奏

 イエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)の礼拝を今日私たちは献げています。
 イエス様は、人間の罪を背負い、その罪を赦すために、十字架に架かって死んでくださいました。
 それは神の子イエス・キリストにとっても、大変厳しく、苦しいことでした。
 「イエス様は神の子だったのだから、そして死んで復活することを知っていたのだから、十字架にかけられても怖くはなかったはずだ」という意見があります。

 しかし、わたしにはとてもそうは思えません。確かにイエス様はご自分が捕まり、十字架にかけられて死ぬこと、そしてその後に復活することを弟子たちにも前もって予告しておられました。
 しかし、それでもイエス様は、人々に捕らえられる前、ゲッセマネという所で必死に祈られました。マルコ福音書14章32節から42節までで描かれるその場面でイエス様は次のように祈っています。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)

イエス様は人となられた神です。イエス様は神でしたが、同時に完全に人間にもなられたのです。それはどう考えても、私たち人間では完全に理解することはできない不思議な出来事ですが、真実なのです。
 そのように、イエス様は神であると同時に完全に人でもありましたから、全ての人の罪を背負う(全く罪のない清いお方が、罪を背負うという経験をされる)という、その使命は、私たちが想像できないほどに辛く、苦しく、悲しい、重いものであったはずです。
 ご自分に課せられたその使命をイエス様は全うして、十字架の上では「成し遂げられた It is finished (NIV)」と言って、息を引き取られました。(ヨハネ福音書19章30節)

 聖書は、イエス様が十字架の上で、無残に殺されたその出来事をはっきりと伝えています。キリスト教会は、今現在にいたるまで、ずっと十字架を私たちの信仰を表わすものとして掲げ続けています。
 それは、「十字架の上で成し遂げられた、主イエス・キリストによる私たちの罪の贖いと赦しの業によって、私たちは罪赦され、生きるものとされた」という信仰を私たちがいつも思い起こすためです。
 イエス様が十字架にかけられたのは金曜日でした。それから三日目の日曜日の朝、主イエスは復活されました。

 今日私たちはイエス様の復活を心に思い起こして、復活の力と希望によって、新たに生かされる経験を、頂いていきたいと願います。
 今日の箇所は、イエス様が十字架にかけられて死んでから三日目の夕方でした。弟子たちがユダヤ人を恐れて、彼らは家の中にこもって戸には鍵をかけていた、と書かれています。

彼らがユダヤ人たちを恐れた、というのは、自分たちが先生として従っていたイエス様が十字架刑で処刑されたので、「自分たちも捕まってしまうのでは?」という恐れの中にいたのでしょう。
それは一体、どれほどの恐怖であったでしょうか。彼らは正に自分の命が奪われるかもしれない、という恐怖の中にいたのです。
そしてまた、彼らは自分たちがそれまで信じてきたことが、完全に打ち砕かれるという衝撃の中にもいました。肉体的な死も恐ろしいですが、大切にしていた精神や理想が死ぬ、ということも大変恐ろしいことだと私は思います。
彼らはイエス様の教えを信じ、そしてイエス様がいずれ彼らにもたらしてくださるもの(と彼らが信じていたもの)に全てを(命を)懸けていました。

それはイエス様が、やがてその圧倒的な力で、ユダヤを支配しているローマ帝国を打ち倒し、神の国を打ち立て、その時には、イエス様に従ってきた自分たちも高い地位に引き上げていただける、ということでした。
しかし、そのように信じてきたことは全て打ち砕かれ、もはや何の望みも彼らには残っていなかったのです。
「一体、私たちは今まで何を信じて生きて来たのだろう。これから、どうすればよいのだろう」と途方に暮れながら彼らは集まり、戸には鍵をかけて家の中で怯えていることしかできなかったのでしょう。
彼らが戸に鍵をかけていた、というのは、彼らの心が閉ざされてしまっていた状態をも表すと私は思います。
「もう何も信じられない」、あるいは「何も信じたくない」という思いで彼らの心の戸は閉じられ、自分の中に完全に閉じこもってしまっていたのです。
 今、私たちはどうでしょうか。こうして教会に集う私たちの心は開かれているでしょうか。私たちの心は主に対して、そして共に集う私たちお互い同士の間で心は開かれているでしょうか。
私たちはそうでありたいと願います。私たちは、どうしたら心を神に開き、また人に対しても開くことができるのでしょうか。
それは復活の主イエス・キリストを信じ、復活の主を私たちの只中にお迎えすることによって可能になります。わたしたちは、どのようにイエス様をお迎えしますか?

今日の聖書箇所では、戸を閉じていた彼ら弟子たちの真ん中にイエス様が来て、立たれました。
戸は閉まっていましたが、復活のイエス様は、全く新しい体に復活していたので、この世の物理的な障害には制限されずに行動することができたのでしょう。
 イエス様は彼らの真ん中に立たれました。本来、神は、私たち人に対して信じて信仰を持つようにと促すため、私たちの心の中に無理やり入ってくることは、なさいません。
 ヨハネの黙示録3章20節に、戸口に立って戸を叩くイエス様のことが次のように書かれています。
 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
 イエス様は私たちの心の戸の前に立たれ、戸を叩いて、私たちが内側からその戸を開くのを待っておられるのです。イエス様は無理やり私たちの心の中に入って来ることはなさいません。
 キリストが私のために死んでくださった、ということを信じて生きていくか、その真実を拒絶して生きていくか、を選択するのは私たち自身です。神はその選択を私たちに強制はされません。

 しかし復活日の夕方、イエス様は、言わば無理やり、弟子たちが鍵をかけていた戸をも通り越えて、弟子たちの前に復活したそのお姿を現されました。
 それは、主の復活が、弟子たちや人々の想像を全く越えた、神の御計画によることをはっきりと表わすためでした。
“主の復活から全く新しいことが始まる”、“神の主導権によってそれが始まる”ということが示されるため、イエス様は閉じられた戸を通って、弟子たちの前に姿を現されたのです。

 弟子たちの真ん中に立たれたイエス様が次のように言われました。
 「あなたがたに平和があるように」。イエス様が復活したのは、弟子たちに、そして私たちに平和を与えるためでした。
 平和とは、壊れた関係が回復(修復)されることです。心と心が結ばれた強い絆、豊かな関係性の中に再び迎え入れられるということです。
聖書は、最初の人であるアダムとエバが犯した罪のため、人は神から離れてしまったことを伝えています。原罪と言われるその罪を、私たちは皆背負っています。
しかし、その原罪を抱えたまま、神から離れたままで人が生きることを神は望まれませんでした。

神は、ご自分の独り子であるイエス・キリストを世に送り、御子の命に代えてでも、私たちを救いたい、と望まれたのです。
そのことは、何度でも、おそらく私が牧師でありキリスト者として生きる一生の間、繰り返し皆さんにお伝えし続けなくてはならないことです。
そして、弱く欠けのあるこの私でも、神のそれほどまでのご愛に少しでも応えて生きることができるように、そのように努力をしたいと私は願っています。その思いは、キリスト者である皆さんも同じはずです。

そして、まだイエス様を主と信じてはおられないお方も、やがて主を信じる告白へと導かれ、イエス様が十字架の上で死んでくださったので今の私の日々の命がある、という信仰へと導かれてほしいと、私たちは願っています。
復活したイエス様は私たちに、平和を与えてくださいました。もういちど、私たちから離れた(壊してしまった)神との関係に入るという平和です。
そしてもう一つ復活のイエス様が私たちに与えてくださったのは、喜びです。
イエス様は弟子たちにご自分の手と脇腹をお見せになりました。そこには釘と槍(やり)による傷跡が痛々しく残っていたはずです。その傷跡によって、弟子たちはそのお方が確かに彼らの主であることが分かったのです。
十字架にかけられて無残に死んだ(殺された)主が、確かに肉体をもって甦ったということが、その手と脇腹の生々しいその傷によって、弟子たちに確信されたのです。

弟子たちに、“人々は(自分たちも含む)イエス様を殺したけれども、この方の命を本当に奪うことは誰にもできない”ということが知らされたのです。
そこから大きな真の喜びが弟子たちに与えられました。主のお命を取ることは誰にもできなかった、そしてその主を信じる自分たちの命を取ることも、誰にもできないという喜びが沸き上がりました。

その喜びに、今の私たちも信仰によって与ることができるのです。

 イエス様は弟子たちに息を吹きかけて次のように言われました。
「聖霊を受けなさい。。。」

イエス様が彼らに息を吹きかけられたのは、新たな命が吹き込まれたことを表わします。
創世記で人が最初に神によって造られた時、人は神から神の息を吹き入れられて生きるものとなりました。(創世記2章7節)
復活のイエス様も、弟子たちに聖霊という命の息吹を与えてくださり、新たに生きる命を与えてくださったのです。
私たちも主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに真ん中にいて頂く信仰によって、神の息、命の息である聖霊をいつも頂くことができます。

 主は復活されました。そして主の復活を信じて生きる者も、やがて主と共に復活します。

それはただの夢物語でなく、その希望を元にして私たちが今この地上での生の現実、厳しい現実を精一杯生きることができる力なのです。
 主イエス・キリストは復活されました。人間のいかなる邪悪な思いや悪の力も、主を完全に無き者にすることはできませんでした。
 私たちは毎週の日曜日、主が復活した日曜日に礼拝を捧げます。今日は特別なイースター礼拝ですが、毎週毎週の日曜日が、主の復活に私たちが共に預かる特別な一時です。
私たちは、共に礼拝することを通して、主に心を開き、また信仰の家族や隣人に対しても心を開いていきたいと願います。
私たちは、復活の主を信じ、復活の主イエス・キリストをいつも私たちの心の中に、この礼拝の只中にお迎えいたしましょう。
 そして「平和があなたがたにあるように」と弟子たちに言われたイエス様のお言葉を、今の私たちにも向けられた言葉だと信じ、主の平和が私たちの間で、そして社会と世界でも実現していくことを祈り求めていきましょう。
一度はご自分を完全に裏切った、本当に弱々しい卑怯な弟子たちを、イエス様は見捨てることなく、再び彼らの前に現れて、聖霊を与えて再び生かし、主の赦しを告げる使者としてくださったのです。
私たちも、主の赦しの御業、復活のイエス・キリストを世に宣べ伝える現代の使者として召され、遣わされています。その召し(calling)に、私たちは喜びをもって応えて参りましょう。

 イースター、おめでとうございます!イエス様、感謝いたします!