2024年3月23日土曜日

2024年3月24日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書53章5節
讃美  新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
主の晩餐
讃美  新生讃美歌 主の流された尊い血しお
献金
聖句  ヨハネによる福音書11章17~27節
祈祷
宣教 「わたしは復活であり、命である」
祈祷
讃美  新生讃美歌 321番 あだに世をば過ごし
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

今週一週間は、キリスト教では“受難週Passion Week”言われる週です。イエス・キリストが十字架に架かって死なれた出来事を、キリスト者が特に思い起こす一週間です。
イエス様が十字架にかかるため、ゴルゴダの丘(処刑場のあった場所)へと向かって歩まれたその道のりも、私たちは覚えます。
キリスト教は、イエス・キリストが死から甦った、主の復活から始まりました。復活により、死は私たちにとって全ての終わりではなく、むしろ始まりであることが示されました。
「死ねば全てが終わり」という考えは、イエス・キリストの復活によって覆され、キリストの復活を信じる者は、死が新しい始まりであるという希望の中に生きることができるようになりました。

 そのイエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)が今年は来週の日曜日の3月31日です。
 復活の前には、イエス様が十字架を背負って、ゴルゴダの丘と言われた場所で十字架刑に処せられた出来事がありました。
受難週が始まる今日、イエス・キリストのご受難とその復活について、改めて私たちは思いを巡らせ、聖書の御言葉から教えられていきましょう。
イエス様は、神の国を人々に伝え、多くの病人を癒したり、人々から悪霊を追いだしたりという業をしながら、やがてご自分が十字架に架かって死ぬ、ということをご存じでした。
福音書の中には、イエス様が生きておられた時に、主にご自分の弟子たちに、ご自分が十字架にかけられて死に、その後に復活すると予告をしておられたことが描かれています。

福音書では、イエス様は弟子たちに、ご自分が十字架にかけられて死に、そして復活することを三回予告された、と書かれています。
マルコ福音書の10章32節から34節に、イエス様がご自身の死と復活を三度目に予告した場面が、次のように書かれています。

32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

イエス様ははっきりとそのように予告しておられました。イエス様が、祭司長や律法学者たちという、ユダヤ教の権力者たちに引き渡され、(最後はローマ帝国の権力によって)侮辱され、鞭打たれて、殺される、そして復活することは、イエス様に課せられた、天の父なる神からの使命であったからです。
しかし、弟子たちにはその意味がよく分からなかった、あるいは、そのことを受け入れるのを恐れた、あるいはペトロのように「主よ、そんなことがあってはなりません」と言って、イエス様に反対した、とも聖書には書かれています。
 神であり、救い主であるお方が、人間の手によって殺されるということは、普通に考えればおかしいことです。なぜ、神が人の手によって殺されなければならないのか?
 しかし、それが神がお定めになった、私たち人の罪が赦され、私たちが滅びの道から救われるための、神の御計画だったのです。

 イエス様はご自分の弟子たち以外にも、ご自分が復活することを予告したことがありました。それが今日の聖書箇所、ヨハネ福音書11章の、ラザロという男の人が死んだ場面です。
 ここでイエス様は、ご自分こそが復活であり、命であると明言をしておられます。
ここで亡くなったのは、ラザロという男の人でした。ラザロには、マルタとマリアという姉妹がいました。
イエス様は、ラザロたちと特に親しかったようです。11章5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書かれています。
11章の初めに、このラザロが病気になっていたことが描かれています。ラザロの病状はかなり悪かったようです。そしてその知らせが、人を通して別の町にいたイエス様にも伝えられました。
しかし、イエス様は、ラザロが病気だという話を聞いても、すぐにはラザロがいたベタニヤへ行こうとはされませんでした。
今日の箇所に書かれている通り、イエス様が、ラザロのところへやってきたのは、ラザロが死んでもう4日経ったときでした。

当時は、三日間の間は、死んだ(と思われた人)が生き返る(蘇生)可能性があると考えられていました。
しかし死後四日経っていたということは、ラザロは死んだということが人々によって確定させられていた、ということです。
19節には、ラザロの姉妹だったマルタとマリアのもとには大勢の人たちが来て、彼女たちを慰めていた、と書かれています。
最愛の兄弟を亡くしたマルタとマリアの悲しみに寄り添い、彼女たちの苦しみを和らげようと、多くの人たちが来ていたようです。

悲しい時、辛い時に、私たちはお互いに慰め合い、寄り添い合うことができるのは幸いだと思います。
家族を亡くした悲しみがそんなに簡単に癒されるものではありませんが、友人や知人からの心からの慰めの言葉は、私たちの心を確かに癒してくれます。
私たち教会の群れも、互いの悲しみと苦しみに寄り添うことができる、そんな信仰の家族でありたいと私は願います。
姉のマルタがイエス様が来られたと聞いて、迎えに行き、次のように言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」
マルタは、先に人をイエス様のところへ行かせて、兄弟のラザロが病気であることを伝えさせていました。マルタは(妹のマリアも)イエス様がすぐに来てくれることを期待していたでしょう。

しかし、イエス様はすぐにはおいでになりませんでした。なぜイエス様がすぐにラザロの病を癒しにお出でにならなかったのか、という疑問をマルタは拭うことができなかったのでしょう。
ですから、「もしここに(あなたが)いてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って、主イエスを非難する思いをマルタは隠すことができませんでした。
わたしたちも、神様に、“今すぐ助けてほしい”、“今すぐ、この問題や悩みを解決してほしい”と願っても、神の助けがすぐには与えられないことが、多くあると思います。
そんな時、マルタのように、神様を少しは非難したくなるように思う時が私たちにもあるかもしれません。
しかし、神には神の時と方法があります。私たちが聖書から教えられることは、神には私たちの思いを越えた最善のご計画がある、ということです。

私たちにとっては“神が来られるのが遅い。神の助けが差し伸べられるのが遅い”と思えても、神が備えてくださる最善の時と方法を私たちは信じたいと願います。
イエス様はマルタにお答えになりました。
「あなたの兄弟は復活する」(23節)
マルタは答えました。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)
  ユダヤ人の間では(全ての人ではありませんでしたが)、復活が信じられていました。イエス様も、これより以前のヨハネ5章28節~29節で次のように言っておられました。

28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

マルタは、そのような復活があるということは聞いて知っていました。彼女がそれを“信じて”いたかどうかは分かりません。
マルタは、ただ“わたしはそれを知っています(存じています)”と言っているからです。マルタは復活を知識として知っていましたが、それが彼女にとっての本当の信仰にはなっておらず、復活の恵みについては分かっていなかったのだと思われます。
聖書に書かれていることを知識としていくら沢山知っていても、聖霊を通してその意味が明らかにされ、御言葉の力が本当に自分を生かすものになっていないのならば、それは信仰とは言えません。
私たちは聖書の言葉を聞き、御言葉を心に蓄えることで、御言葉が自分を支え、慰め、励ます本当の力となることを、経験していきたいと願います。そのようにして、御言葉によって信仰が成長させられ続けるのです。

イエス様がどのようにマルタにお答えになったか、聞いて見ましょう。(25~26節)

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエス様はここでは、「わたしは復活する」あるいは「わたしは生きる」とはおっしゃっていません。
イエス様は、「わたしは(が)復活であり、命である」とおっしゃっています。復活とは何なのか、命とは何なのか?その答えはご自身である、と言うのです。
イエス様ご自身が復活そのものであり、命そのものなのです。イエス・キリストにこそ、一度死んだもの、もう終わったと思われた状態に、新しい命を吹き込む力がある、ということです。
ですから、生きていてキリストを信じる者は、だれでも決して死ぬことがないのです。ここで言われる“信じる”とは、“キリストの中で生きる”という意味です。

聖書の言葉が、ただの知識としてではなく、聖書の言葉が本当に魂の糧となる時、私たちは生きます。
自分中心の生き方でなく、キリスト中心の生き方へ変えられることで、私たちはキリストの中に生きるものとなります。キリストの中に生きるとは、キリストの復活に与るということでもあるのです。
そのことを信じるか?とイエス様はマルタに向かって、そして私たちひとり一人に向けて、今も語りかけておられます。
 その問いかけに、「はい、信じます」と私たちは日々、新たな信仰をもって答えていこうではありませんか。
 受難週の今週、イエス様が私たちの罪の贖いのため、私たちが死んで滅びず永遠の命に生きることができるため、十字架にかかってくださったその犠牲の出来事に思いを馳せつつ、一日一日を過ごしてまいりましょう。