2024年3月16日土曜日

2024年3月17日主日礼拝

前奏
招詞  ホセア書6章6節
讃美  新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美  新生讃美歌227番  カルバリの丘へと
献金
聖句 ルカによる福音書6章1~11節
祈祷
宣教 「安息日にしてはならないこと」
祈祷
讃美  新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所では、安息日(ユダヤ教の安息日:土曜日)に、イエス様と弟子たちが麦畑を通って行きます。 そこで、弟子たちは空腹だったのでしょう、麦の穂を摘んで、手で揉んで食べたのです。(おそらくイエス様も食べたのでしょう)
  その麦畑は誰かの所有物であったはずです。しかし、イエス様の弟子たちはその麦の穂を摘んで、揉んで食べました。
  それは、聖書の律法で許されていることでした。旧約聖書『申命記』23章25節~26節(24~25 NIV)に以下のように記されています。
 
隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。
隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。
これは、人が本当に空腹である時、他者(隣人)の畑の作物を取って食べてもよい、という戒めです。その畑の所有者も、空腹である隣人を助けることをよしとせねばならない、という神の戒めです。
 ただし、申命記のその戒めは「籠にいれてはならない」、「鎌を使ってはならない」と言って、本当に空腹を満たす以上に麦を取ることを禁じています。
 その戒めは、私たち誰もが、必要以上に欲しがるという貪欲の罪を抱えた者であること、必要以上に“貪る”という罪を犯し得る者であることを思い起こさせます。

 そのうえで、人は誰もが、本当に必要な食料、生きる上で必要な食料に不足してはいけない、そうならないように努めるのが共同体の務めであると、神がお定めになったのです。
 しかし、麦畑の中を通り、麦を取って食べていたイエス様の弟子たちの行動を咎めて(非難して)質問してきた人たちがいました。
ファリサイ派と言われた、聖書の律法を厳粛に解釈していた人たちが、麦を取って食べているイエス様の弟子たちに「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と聞いたのです。
 その日は安息日でした。安息日は、神によって定められ、イスラエルの民たちが代々守るようにと神によって厳格に定められた戒めでした。
  旧約聖書の『出エジプト記』の中で、神がモーセに十戒の言葉を告げます。十戒の中に安息日についての戒めが次のように記されています。

 出エジプト記20章8~11節 (Exodus 20:8~11)
8安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 十戒の中でも、安息日に関する戒めは、以上のように比較的多くの分量で、細かく定められています。
  ファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、その戒めを厳格に守るために、何が(どのような行為が)“仕事”に該当するのか、ということを定めました。
  その定めには、“一日の間に歩くことが許される距離”というのもあったそうです。それは大体一キロメートルぐらいであって、それ以上の移動は“仕事”と見なされたと言われます。
 そして麦の穂を摘み、揉んで実を取り出すという行為も、それは“収穫作業”という労働だと見なされていたのです。
 ファリサイ派たちは、“なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか”と聞きました。
  彼らは「あなたたちは安息日を守らずに律法違反を犯している!」と言って、イエス様と弟子たちを非難したのです。

 ここでは何が起きているのでしょうか。ここで起きているのは、相手のことを思いやる共感力の欠如だと、私は思わされました。
  安息日の戒めについてはイエス様の弟子たちもよく知っていたはずなのです。イエス様は既に神の言葉を大勢の人に教えておられ、教師としての(そして病を癒す治癒者としての)評判が広く知れ渡っていました。
 イエス様と弟子たちが、重要な安息日の戒めと、その適用の解釈を知らないはずがありません。通常の“収穫”は安息日が禁じる労働に該当する、ということもイエス様も弟子たちも知っていたはずです。
  そうであれば、それでもなおイエス様の弟子たちがそこで麦を取って食べたというのは、彼らがそれほど深刻に空腹であったということです。
 ファリサイ派の人たちは、“なぜ安息日にしてはならないことをするのか”と非難して聞く前に、イエス様の弟子たちの様子、その空腹の様子を見て、彼らに同情(共感)することこそが必要だったのです。
 私はよく、人をその人の見た目、うわべだけで判断してしまい、心の中でその人を裁いてしまうことがよくあります。
 その人の事情を理解しようとせず、うわべだけで「自分とは違う」と断罪してしまうのです。

 ヘブライ人への手紙の13章3節に、次のように書かれています。
自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。

 “牢に捕らわれている人”、“虐待されている人”の本当の気持ちは、本当にそのような経験をしなければ分からないでしょう。
  それでも、そのような環境に置かれたら人はどうなるのだろう、と想像力を働かせることが私たちには出来るはずです。
  思いやりを共なった想像力を働かせることにより、人を簡単に裁く罪を犯すことがないようにしたいと私は願います。
  その人をうわべだけで判断せず、またできるだけその人の立場に立とうと心がけて、神が私たちに与えてくださった、人を思いやる心を失うことなく、人と接することができるようにと、私は祈り願います。
  イエス様はファリサイ人たちへの質問に対して、旧約聖書サムエル記上21章の中で描かれている、ダビデに関する出来事に言及して答えます。
  ダビデは預言者サムエルによって選ばれ、サウルに次ぐ王様として選ばれていました。しかしダビデはサウルに妬まれて、その命を狙われるようにまでなったので、ダビデは逃亡します。

 そしてアヒメレクという祭司のところへ、ダビデは行き、食べ物をくれるようにとアヒメレクに頼みます。
そこには聖別された(特別に取り分けられた)パンだけがありました。聖別されたパンは祭司でしか食べることを許されていないものでした。
しかしダビデはそこで、自分は王から遣わされてきたなどと嘘までついて、本来祭司でしか食べることを許されないパンを手に入れました。
 聖書は嘘をつくことを奨励しているのではありません。しかし、その時のダビデは、まさに生きるか死ぬかの状況であり、聖別のパンは祭司しか食べることを許されない、という規則も、ダビデという一人の人の命の前にはその効力を失うのです。
  今日の6節からの話も、安息日にして許されることと許されないことに関わる話です。イエス様は会堂に入って教えておられました。そこに一人の右手の萎えた人、右手が何らかの原因で麻痺していた人がいました。

 その人の右手が萎えているという状態は、いますぐ直さなくてはその人の命に関わる、という問題ではありませんでした。ですから、安息日にその人を癒すことは、緊急ではない医療行為という一つの“労働”だと見なされていました。
 そこで律法学者とファリサイ人たちが、イエス様がその右手の萎えた人を癒されるかどうかをじっと伺っていました。
  もしイエス様がその人を癒したら、“安息日に、緊急でない癒しの行為という労働をしている、律法違反だ!”と言って訴えようと彼らはしていたのです。
  確かに、見た目にはその人の症状は、今すぐ直さなくては命に関わる、というものではなかったかもしれません。
 しかし、右手の萎えたその人自身は、どのような思いで、その時いたのでしょうか。その人はそれまでに、どれほどの苦しみを、それまで生きて来なければならなかったのでしょうか。

  そのようなことを私たちが想像し、その人に共感することを、イエス様は今でも聖書を通して促しておられます。
 イエス様はその人の苦しみをご覧になり、その時すぐにその人は癒されなくてはならない、と思って、神の御子イエス様はその人をそこで癒されたのです。
  5節と、9節のイエス様の言葉をわたしたちは改めて確認しましょう。

「人の子は安息日の主である。」

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

 「安息日に何をしていいのか、してはならないのか」~そのように、宗教的規則を守るかどうかということだけが重要になると、そこからは安息日本来の恵みと喜びは失われます。
今日の箇所は、“戒め”、あるいは”宗教的な規則”、そしてそれらを守るとはどういうことか、ということがテーマになっている箇所です。

宗教に対して一般的に持たれているイメージは「色々な規則に縛られる生活」であるかもしれません。
 「礼拝に毎週行かなくてならない」、「献金しなくてはならない」、「聖書を読まなくてはならない」などなど。
 しかし、イエス・キリストに繋がる信仰者は、数々の“~しなくてはならない”という生き方ではなく、キリストによって神の子とされたという喜びに基づいた、自由な生き方が出来るようになります。

 キリストにある信仰者は何事にも自由に生きることができる者だと言えます。キリストにある自由、真の自由を頂いて生きることができる信仰者としての幸いを、私たちは改めて覚えましょう。
 安息日も、その他の神の様々な恵みも、私たちがそれらを通して神の愛と憐れみ、命の救いを得るためにあります。
 神から頂く安息の恵み、神から頂くその真の安息の恵みの中に生きる信仰を私たちは生きていきたいと願います。