2023年4月29日土曜日

2023年4月30日 主日礼拝

招詞 イザヤ書49章6節
賛美 新生讃美歌 338番 よきおとずれを語り伝え
主の祈り
献金
聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章13節
祈祷
宣教  「愛の奉仕」
https://youtu.be/qXf8pqbp5zs
祈祷
賛美 新生讃美歌 628番 われは主にみな捧ぐ
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


 4月から始まった新しい年度(2023年度)も既に一ヶ月が経ちました。今年度、わたしたちには「愛の奉仕」(英語訳では、“愛をもって、奉仕を捧げよう”(give your service with love)という年間標語が与えられました。
その標語を採択したのは私たちですが、私たちの祈りと話し合いを通して、最終的には主なる神からその標語(願い)が私たちに与えられたと私は信じています。
 イエス・キリストの主なる神が、私たちの心の中に、そのような願いを起こしてくださったのです。

“キリストの体である教会に奉仕したい”、“教会を通して、主なる神に奉仕を捧げたい”、‟自分に与えられた賜物を捧げたい”という願いを、神が私たちに与えてくださいました。
 今年度“愛の奉仕”の思いをもって、私たちは信仰生活(教会生活)を共に送っていきたいと願います。
 その標語と思いを支える聖書の言葉として、今日の宣教箇所であるガラテヤの信徒への手紙5章13節が私たちに与えられました。
この一節には、「キリスト者とはどのような者であるのか」、そして「キリスト者は、どのように生きるべきなのか」という、信仰の本質的なことが書かれています。
 「愛によって互いに仕えなさい」~英語訳では「愛の中で、互いに謙虚に仕えなさい」と訳されています。ここで「仕える」と訳されている元のギリシア語の単語(動詞)は、「奴隷として仕える」という意味です。
 「互いに、奴隷として、仕えなさい」~この命令に対する私たちの最初の正直な反応は、おそらく「嫌だ!」ではないでしょうか。誰が奴隷になりたいと思うでしょうか?
「他者のために、できるだけ善いことをしようとは思う。しかし、奴隷として相手に仕えるなんて無理、嫌だ」と私たちは思うのではないでしょうか。
 人は自分に誇りをもって、誰に対しても従属せずに自信を持って自由に生きるべきだ、と私たちは思います。ですから「奴隷として互いに仕えなさい」という命令には、私たちは反発します。

 しかしこの命令は、「愛によって互いに仕えなさい」と言っています。
「愛によって(愛の中で)」が重要です。聖書はここで「あなたがた自身の思いや能力によって、互いに仕えなさい」とは言っていないのです。
 そうではなく、「愛によって、あなたがたは互いに仕えなさい」と言われています。ここで言われる愛とは、主イエス・キリストを通して示された神の愛です。イエス・キリストの愛です。
 神が人となったイエス・キリスト~このお方を通して私たちに与えられた愛によって、あなたがたは互いに仕えなさい、というのです。
 もし私たちキリスト者が、キリストを信じると言いながらも、“互いに仕える”ことを学ばない、そのことを実践しようとしないのならば、私たちはキリストを信じている、とは言えなくなります。
 わたしたちを互いに仕える者にさせる原動力である、キリストの愛を改めて私たちはここで思い起こしたいと思います。

 イエス様は、この地上で生きておられた間、そして特に直弟子である12弟子たちと共におられた時、常に“奴隷(僕)としての生き方”の模範を示し続けました。
 イエス様が十字架に掛けられる前に、イエス様が弟子たちと最後の夕食(最後の晩餐)を取っていた時、イエス様は立ち上がって、弟子たちひとり一人の足を洗いました。(ヨハネ13章)
 それはイエス様が十字架に掛けられて死ぬ前の日の晩でした。あと一日しか命がないその時に、イエス様は立ち上がって、ご自分でたらいに水をくみ、弟子たちの足を洗い、そして手ぬぐいでその足を拭く、ということまでしたのです。
 そこでイエス様は次のようにおっしゃいました。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
(ヨハネ13章14~15節)

 当時は、人々は素足にサンダルのような履物を履いて生活をしていました。ですから、外から家に帰って来ると、足が土や埃で汚れているのが普通でした。外出から帰ると、人々は汚れた足を洗う必要がありました。
 そして人の足を洗うのは通常は奴隷の仕事でした。しかもそれは、ユダヤ人の奴隷にはさせない、異邦人の奴隷にしかさせない仕事であったと言われます。
 同胞であるユダヤ人の奴隷は免除された(それほど屈辱的な)仕事である、“他人の足を洗う”という仕事を、主であり、王であり、神の子であるイエス・キリストが率先してなさったのです。
 わたしたちにとって「信頼できる指導者」あるいは、組織で仕事をしている方であれば、「信頼できる上司」とはどんな人でしょうか?
どんな先輩や上司であれば、わたしたちはその人を信頼し、その人に見倣おう、その人に従って行こうと思うでしょうか?

 それは、すべきことを自ら実践してみせてくれる人、だと私は思います。やってみせてくれる~そのような人を私たちは信頼できると思います。
イエス様はまさに、そのような指導者でした。イエス様は、弟子がすべきこと、“こうやって信仰者は生きるのだ”という模範を、御自分でやって見せてくださいました。
イエス様は「あなたがたは、互いにこうやって仕え合いなさい」という模範を、弟子たちの足を洗うという行いを通して、私たちにはっきりと示してくださいました。
 そして今イエス様を信じて生きる私たちも、信仰的に(霊的に)イエス様に足を洗っていただいたと言ってよいと私は思います。
 主であるイエス様に足を洗っていただき、“あなたがたも互いに足を洗い合いなさい”、“互いに仕えなさい(奴隷として)”というイエス様の言葉を聞いた私たちは、イエス様のその教えに従って生きなければなりません。

 イエス様が、奴隷の立場にまで、そこまで御自分を低くされたことは、次の有名な聖句にもはっきりと書かれています。

フィリピの信徒への手紙2章6~7節です。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 神と等しい身分でありながら、自ら奴隷の身分になられたのが、わたしたちの主なる神であるイエス・キリストです。
そのお方(イエス・キリスト)を主と仰ぐ私たち、この教会の中では、ご自身を私たちのために捧げてくださったイエス様の御愛によって、互いに(奴隷として)仕え合うという神の業がきっと実現していく~私たちはそう信じてよいのです。
 今日の聖書箇所、そして教会の年間主題であるガラテヤの信徒への手紙5章13節の前半の部分を、お読みします。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。
 わたしたちは神によって召し出され(呼ばれて)、自由となりました。ここで言われているのはそういうことです。キリストにあって、私たちは自由にされました。
 ヨハネの福音書の14章31~32節で、イエス様が次のように言っています。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 イエス様の言葉は、今も聖書を通して私たちに残されています。わたしたちは信仰によって、イエス様の御言葉の中に留まり続けます。
 キリストの言葉にとどまることによって私たちは真理を知り、その真理は私たちを自由にします。
変りやすい人間の常識や考え、時代の風潮や雰囲気などとは違い、いつまでも決して変わらないもの~それが真理です。
 その真理はわたしたちを支え、わたしたちを力強め、そしてわたしたちを本当の意味で自由にします。その真理とはイエス・キリストの御言葉です。イエス・キリストこそが真理ですから、イエス様の御言葉は真理なのです。
 その真理を知らされた私たちは、世の中の移り変わりやすい流行や、人からの評判や噂によって左右されない、イエス・キリストへの信仰による自由を持つことができます。
 その自由を私たちはどのように用いるべきなのでしょうか。その事について今日の聖句に次のように書かれています。

「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、
私たちは弱く、またどうしても自分を誇ろうとする思い、高ぶる思いを持ってしまいます。
せっかく頂いた尊い、信仰による自由、キリストの真理によって与えられたこの自由を、“自分を高める、自分誇る”と言う目的のために誤って用いてしまう危険性が残念ながら私たちにはあるのです。
そのような私たちの肉の思いを断ち切るために、私たちは常に聖書の御言葉によって自分の心を照らしましょう。
そしてイエス様が十字架に架かって死んでくださったその出来事に、いつも思いを馳せましょう。
 私たちのためにご自分の全てを献げてくださった、神の御子イエス・キリストが私たちの主人です。私たちの主人であるイエス様が、自ら弟子たちの足を洗うという模範を示してくださったのです。

それほどまでに神が弟子たちひとり一人を、そして私たちひとり一人を特別に大切な者として愛してくださったのです。
今年度特に私たちは、キリスト者として私たちに与えられた測り知れない自由を感謝して受け止めたいと思います。
そしてキリストの真理によって与えられたその自由を、私たちは私たちの肉と欲を満たすために用いるのではなく、キリストの愛によって(キリストの愛の中で)互いに仕え合うことのために、その自由を用いていきましょう。
私たちが、キリストに従って共に歩もうと決意をする時、神は私たちをキリストによって一つとしてくださり、そして私たちは、お互いに愛の中で互いに仕え合う群れとして、きっと成長していくことができます。
そのような確かな希望を頂いて、私たちの心の思いも全て神にお委ねをして、新しい年度もキリストにある信仰の日々を共に歩んでまいりましょう。