2023年4月22日土曜日

2023年4月23日 主日礼拝

招詞 エレミヤ7:2~3節
賛美 新生讃美歌 626番 主はいのちを与えませリ
主の祈り
主の晩餐
献金
聖書  コリントの信徒への手紙一 16章1~12節
祈祷
宣教  「わたしの働きのために大きな門が開かれている」
https://youtu.be/CrrI2PzPkPU
祈祷
賛美 新生讃美歌 639番 主の恵みに生きる
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷

 教会は一つの体、と言われます。教会は、人間の体に例えられるということです。
ローマの信徒への手紙12章5節には「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と書かれています。
ローマの信徒への手紙も、今日の私たちの礼拝の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙も、パウロという伝道者がローマとコリントという場所にあった教会の信徒たちへ書いた手紙です。

パウロは、1コリント12章12~13節では次のように書いています。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体の部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」
 イエス・キリストを主と信じ、キリストに従って生きることを決心し、その信仰と決心の表明として、バプテスマを受けた人は、誰であっても(国や身分に関わらず)キリストの体である教会に連なって、その体の一部となって生きるということです。
 しかし「体の一部」と言うと、それはわたしたちのプライドを傷つけるように聞こえるかもしれません。なぜなら「一部」と言うと、それはまるで「交換可能な一つの機械部品」と言われているようにも感じられるからです。

それはまるで「別にあなたがいなくても、代わりの人は他にいますよ」と聞こえる可能性があります。私は最初「体の一部」の譬えを聞いた時、少しそのように感じたのです。
 しかし聖書が、キリスト者ひとり一人を「体の一部」に例えている意図は、それとは全く違います。
 わたしたちがキリストの体の一部になるということは、取り換え可能な一つの機械部品になるということでは全くありません。
それはむしろ、キリストの体の一部として、その体の頭であり主であるイエス・キリストにとって、わたしたちひとり一人がかけがえない者(存在)にされる、とう大きな恵みなのです。
そして同じキリストの体に連なるひとり一人が、具体的には教会に連なるひとり一人がお互いにとっても、かけがえのない不可欠な存在になる、ということです。

4月9日(日)のイースター礼拝では、私たちは主イエス・キリストの復活を共に記念し、喜び、お祝いをいたしました。そしてその日は新たに一人の兄弟が、キリストを主と信じバプテスマを受け、私たちの教会の群れに加わりました。
キリストにとって、そして私たちにとって「かけがえのない一部」に、その人はなったのです。私たちが同じ主を信じ、キリスト教会に結びつけられているのは、それほどまでに特別なことなのだ、ということを私たちは改めて覚えたいと思います。

 今日の聖書箇所である1コリント16章の始め(1節)に次のように書かれています。
「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。」
 ここで「聖なる者(英語の訳では“主の人々the Lord’s people”)」と言われているのは、エルサレムにあった教会の信徒たちのことです。 エルサレム教会は、最初のキリスト教会でした。
 イエス様が十字架に掛けられて死に、そして復活して、再び天に上げられた後、イエス様の弟子たちはエルサレムに留まっていました。
 そして使徒言行録1~2章の中に記されている通り、エルサレムに留まっていた弟子たちや他の信徒たちに聖霊(神の霊)が下って、そこからキリスト者の集会、すなわち教会が始まったと言われます。
 イエス・キリストが主である、と言う信仰は、最初はユダヤ人たちの間だけで信じられていました。聖書の中で、ユダヤ人以外の民族のことが“異邦人”と言われています。パウロは、この異邦人と言われる人たちへキリストの信仰を伝えることが自分の使命だと確信した人でした。

パウロのような伝道者たちの働きを通して(彼らが各地へ赴いて、キリストの福音について伝えたことを通して)やがてユダヤ人の枠を超えて、イエス・キリストへの信仰は他の国や地域へも広がっていきました。
 そしてイスラエル以外の各地にも教会が出来ました。ローマの教会やコリントの教会もそのような、異邦人伝道によって生まれた教会でした。
ユダヤ人以外の人たちが異邦人と言われたのに対し、最初の教会であったエルサレム教会の信徒たちのことが「聖なる者」と、今日の箇所で言われているのです。
これは、同じキリストを信じる信者としての身分は平等ですが、当時“最初の教会”、“ペトロたち、イエス様の教えや行いに直接触れた信者たち”という意味で、エルサレム教会に対しては、ある種特別な思いや尊敬が向けられていた、ということを表します。
主なる神は、エルサレムの信者たちを通して、イエス・キリストの福音を最初に人々に伝えられた~その事実もあって、エルサレム教会が特別な思いをもって他の地域の信者たちに受け止められていた、ということだと私は思います。
わたしたちも、最初に自分に福音を伝えてくれた人や、あるいは自分の出身教会や母教会には特別な思いを持つ、ということがあると思います。当時のキリスト信者たちにとって、エルサレム教会は、そのような“母なる教会”でもあったのでしょう。

また「聖なる者たち」あるいは「主の人々」と、エルサレム教会の信徒たちを、パウロがここで言っていることは、同じ主(神)を信じる者への愛を表してもいます。
実はパウロは、エルサレム教会の信者たち(ペトロをはじめとするエルサレム教会の指導者たち)とは、福音伝道に関して意見の違いなどにより、激しく衝突したこともあったのです。

ガラテヤの信徒への手紙2章11~12節に次のように書かれています。
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
 ケファ(Cephas)とはペトロのことです。「ヤコブのもとから」(from James)とは、エルサレム教会から、という意味です。
 アンティオキア教会は、パウロや彼の同労者であるバルナバを、宣教活動に送り出した教会です。アンティオキア教会はパウロにとっては母教会だったと言ってよいでしょう。
 ペトロがアンティオケア教会に来た時に、最初はユダヤ人以外の人たちも一緒に彼は食事をしていました。ところがエルサレム教会から別の人たちが来ると、ペトロは異邦人たちとの食事の場から身を引いた、というのです。
 当時、ユダヤ人以外の人と交わったり、まして一緒に食事をしたりすることはユダヤ人には禁じられていたからです。
 しかしパウロは「そのような態度は、キリストにある信仰に相応しくない」、「キリストはユダヤ人だけでなく、すべての人にとっての主だ」と言って、ペトロを面と向かって激しく非難したというのです。

 それ以外にも、ユダヤ人以外の人たち(異邦人)への伝道に関して、パウロとエルサレム教会の間には、色々な意見の違い、激しい議論がありました。
 使徒言行録15章の最初には、“異邦人も、ユダヤ人のように割礼を受けるべきか”という問題をはじめとして、「パウロやバルナバとその人たち(エルサレム教会の人たち)の間に、激しい意見の対立と論争が生じた」と書かれています。
 そのようなことがあっても(色々と対立や激しい議論を交わしていても)、パウロにとってエルサレム教会の信者たちは、“聖なる者たち”でした。彼らはパウロにとって、同じキリストを信じるかけがえのない“神の家族”であり続けたということです。
 今日の箇所で”募金”(collection)と書かれていますが、当時エルサレムの教会は大変困窮した状態にありました。使途言行録11章28節によれば、当時大きな飢饉があって、とくにエルサレム教会の信者たちは困窮していたことが書かれています。
 意見や考えが異なり、激しい議論をしたことがある間柄であっても、パウロにとって、エルサレム教会の信者たちは同じキリストの信者であり、神の家族でした。
その彼らが大変に困窮しているから助けなくてはならない。パウロは各地の教会に、エルサレム教会の信者を助けるための支援(募金)を呼びかけていたのです。それが今日の箇所の背景です。

 その状況は、今の私たち、同じ教会の信徒同士の関係についても同じことが言えると思います。
私たちの間にも色々と考えや思い、立場やもちろん好みなども違うことがあります。
しかし、同じイエス・キリストを信じ、同じ教会に結びつけられた私たちは、お互いに「聖なる者」なのです。
 キリストへの信仰によって、一つの体に連なる者同士とされた、”聖なる者同士”の信仰の絆をわたしたちは大切にしていきたいと願います。

 今日の1コリント16章5節以降では、パウロがエルサレム教会の信者たちの困窮を心に掛けながらも、これからの福音宣教についても思いを向けて、将来の伝道計画についても大きな希望を持っていることが書かれています。

 9節(今日の宣教題でもあります)をお読みします。
わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。

 パウロは信仰の目によって、彼の目の前に開かれている「大きな門a great door」をここで見ています。キリストの福音を信じて生き、福音を宣べ伝える働きのための大きな門が彼の前には開かれていたのです。
 信仰者は、今の状況がどれほど厳しくても、将来に向けての希望をキリストにある信仰によって持つことができる、ということです。キリストが私たちを導き、必要なものは必ず私たちに与えられるからです。
 パウロには彼に反対する者、彼を攻撃する者たちも沢山いました。パウロは伝道活動の中で多くの迫害や困難にあいました。信仰を持って生きることは、いつも平穏で順風満帆ではない、むしろそうでないことのほうが多いかもしれません。
 しかし、そうであっても私たちは恐れなくてもよいのです。主なる神が、復活のイエス・キリストがわたしたちと共にいてくださいます。そしてまた、私たちには信仰の家族、信仰の友がいます。
 パウロも、今日の箇所で書かれているように、「わたしと同様、彼は主の仕事をしている」テモテや、兄弟(信仰の兄弟)アポロという、福音伝道の働きの同労者たち、仲間がいました。
 そのように、キリストにある信仰者はいついかなる時にも、決して一人ではないのです。
イエス・キリストが私たちと共にいて下さり、共に励まし合い、福音を分かち合い、喜び合い、支え合うことができる信仰の仲間が、いつも私たちには与えられています。
そのことを私たちは心から、喜びましょう。
 主なる神に守られて、教会に連なり、信仰の仲間と共に、わたしたちもこれからの信仰生活を共に歩んでいきたいと願います。