2023年4月15日土曜日

2023年4月16日 主日礼拝

招詞 詩編91篇4節
賛美 新生讃美歌 363番 キリスト教会の主よ
主の祈り
献金
聖書  ルカによる福音書2章1~7節
祈祷
宣教  「彼らの泊まる場所」
https://youtu.be/xDpy_zkQp4M
祈祷
賛美 新生讃美歌 554番 イエスに導かれ
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


先週の日曜日(4月9日)は、わたしたちはイエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)礼拝を持ちました。
イエス様は十字架の上で、私たち人の罪の贖い(代償)として、命を捨ててくださいました。十字架の上で、私たち人の罪は、イエス様の命と引き換えに、赦されました。
そして主は復活し、死に打ち勝たれました。死の恐怖、死の力が神の前には何の力も持たないことを、復活のイエス様がはっきりと示してくださいました。
ですから私たちは、キリストを信じ、復活の主キリストと共に生きることによって、死の恐怖と罪の縄目から解放され、日々確かな希望を持って生きることができるようになりました。そのことを私たちは心から感謝したいと思います。

 今日の聖書の箇所は、ルカ福音書を連続して礼拝宣教の中で読んでいる宣教スケジュールに戻りまして、ルカによる福音書2章1~7節です。ここは、イエス様がお生まれになった場面で、クリスマス礼拝の時によく読まれる箇所の一つです。
 “ローマ皇帝アウグストスが全領土の住民に住民登録をするように命令した”という記述から今日の箇所は始まっています(1節)。皇帝の命令には、支配下にあるすべての人民が従わなくてはなりませんでした。
その時皇帝が住民登録を命じた理由は、人々に税金を課すことが目的だったと言われています。税金を課すために、人民(各家族)の数と財産を正確に記録し把握することが必要だったのです。

 ヨセフとマリアは(二人はまだ、夫婦としての正式な関係を持っていないという意味で、マリアのことは“いいなづけ(英語:‟婚約していた”)のマリア”と5節には書かれています)、彼らが住んでいた町ガリラヤからユダヤのベツレヘムまで、登録のために行かねばなりませんでした。
 その道のり(ガリラヤからベツレヘムまで)はおよそ150キロと言われます。それだけの長距離を、妊娠中のマリアを伴なってヨセフは旅をせねばなりませんでした。
 この住民登録は、皇帝アウグストスの権力の大きさを示すものでもあります。住民登録の目的には、税金を課すという実際的な目的と同時に、“皇帝の権力を誇示する”という目的もあったかもしれません。
 皇帝の一言で全住民が大きな移動さえもせねばならない~それは皇帝の持つ権力の大きさを示すものです。

しかし逆に、この住民登録は人間であるが故(ゆえ)の弱さ、人間の能力の限界をも表します。
それは、皇帝であろうとも、住民登録という形で人民に強制的に登録をさせなければ、自分が支配している民たちのことを把握することはできない、ということです。

 それに対して、神はそのようなお方ではありません。神はわたしたち人のことを把握するために「住民登録をしろ」と命じる必要はありません。神はわたしたち全ての人のことを知っていてくださいます。
 それは、聖書が伝える神は、わたしたち全ての者を、この世界のすべてのものをお造りになった創造主であるからです。そして神はわたしたちひとり一人のことを、本当に大切に思い見守ってくださっているお方であるからです。
イエス様は「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とおっしゃいました。(マタイによる福音書10章30節)。それは、”神によって数えられている”、ということです。
それは、“神はわたしたち全ての者のことについて、文字通り全てを知っていてくださっている”ということです。ですから神は住民登録のようなことをして、御自分の民の人数や財産を把握する必要がないのです。
また、神はわたしたちから税を取り立てる方ではありません。神はわたしたちから税金など取る必要が全くないお方です。
確かに私たち信仰者は、神から頂いている恵みへの感謝として献げ物(献金)をします。しかしそれは、わたしたちに課せられた(義務的に支払う)税金などとは全く違います。
わたしたちの全てを知っていて下さり、わたしたちに全てを与えてくださる神に、信仰の感謝を持って私たちがお献げするもの(お返しするもの)~それがわたしたちの献げ物(具体的には献金)です。

 人間の権力者は、悪意に基づくとは限らないとしても、過度な負担や要求を自分の影響下にある他の人間に与えてしまう(課す)ことがあります。
 権力を持った者が(それには教会の牧師も含まれるでしょう)、正しく公正に、与えられた責務を果たし、その力を濫用することが決してないように、私たちは祈りたいと願います。

 皇帝の命令により、「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」と3節に書かれています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤからベツレヘムまで行かねばなりませんでした。
彼は、偉大なダビデ王の家系に属し、ダビデの町であるベツレヘムが彼の「自分の町」(もともとの故郷)でした。ヨセフはもともとベツレヘムの出身で、ガリラヤに移り住んでいたのかもしれません。
自分の町(出身地)から遠く離れて暮らす人たちにとっては、この住民登録の時に自分の町に行くということは、自分の生まれ故郷へ帰る時、あるいは自分のルーツをたどるような機会であったかもしれません。

人によっては、久々に自分の出身地に向かうことで、「里帰り」をするような喜び、自分のルーツに戻るように感じられる、感慨深い時でもあったかもしれません。
 出身地あるいは生まれ故郷というものは、わたしたちに特別な思いを抱かせます。遠く離れた地で、同じ出身地の者同士が会うと、わたしたちは嬉しい気持ちになることがあります。
 私たちの教会には、地元の方々、そして日本各地のご出身の方、また海外の地域や国々出身の方々が集っています。皆さんそれぞれ、ご自分の出身地、出身国に愛着をお持ちではないかと私は想像します。
 そのような私たちが教会に一緒に集っていることはとても特別なことであり、また恵みの喜びの出来事なのです。それは教会が神の家であり、キリストの体という特別な場所であることの表れであるからです。
 教会に集い、教会につながることで、私たちは自分が本当は何に属する者であるかを知らされ、信じることができます。

聖書は、わたしたちの「本国」について、次のように言っています。フィリピの信徒への手紙3章20節に次のように書かれています。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」
キリストによる救いを信じる者は、その本国(国籍)が天=神の国にあると、聖書は告げているのです。

わたしたちはこの地上では様々な地域や国に生まれます。しかしイエス・キリストへの信仰によって、わたしたち全ての者の本当の国は天にある、ということを私たちは知らされるのです。
国や地域の違い、文化や言葉の違いは、私たち人間の世界の多様性(豊かさ)を表すものです。それと同時に、それらは私たちがお互いを理解する時の妨げ、差別や誤解の原因ともなります。
私たちの間の違いが、敵意や争いさえも、不幸にも生み出してしまうことがあります。そのような時には、わたしたちはイエス・キリストの十字架を見上げる必要があります。

聖書のまた別の箇所、エフェソの信徒への手紙2章14節に
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と書かれています。
 キリストは私たちの平和であり、異なる背景や様々な違いを持つ私たちがキリストによって一つとなれるのです。

さらにエフェソの信徒への手紙2章19節には「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と書かれています。

 私たちはキリストにあって平和を頂き、キリストによって一つとされています。私たちは天の御国という本国に属する者であることを確認し喜ぶために、こうして礼拝に共に集っているのです。
様々な背景を持つ私たちがキリストによって一つとされていること、神の家族とされていることを喜ぼうではありませんか。
そして私たちの本国は天にあるのですから、わたしたちはこの地上での出身地や住む場所に関わらず、キリストにあって同じ故郷を天に持つ者同士であることを、信仰によってお互いに喜び合いましょう。

 ヨセフとマリアがベツレヘムに滞在中に、マリアが子を産みました。神の御子イエス・キリストの誕生です。“宿屋には彼ら(ヨセフとマリア)が泊まる場所がなかったので、イエス様は飼い葉桶に寝かされた”と書かれています。
 大きな権力をもって、全領土の住民に住民登録を命じる皇帝アウグストスの姿とは対照的に、神の子であるイエス様が、本来与えられるべき“最良の場所”とは程遠い、飼い葉桶に寝かされました。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」~これは、この世と私たち人間の現実の姿を表しています。それは、この世は神の子をその最良の場所(客間)へお迎えする用意と気持ちがなかった、ということを表しています。
 イエス・キリストは人々によって十字架に掛けられました。一番近くにいた弟子によってイエス様は裏切られました。
 しかし人の世は、ある意味で最初から、御子イエス・キリストがこの世に来られたことを拒絶していたのです。飼い葉桶に寝かされた赤子のイエス様は、そんな私たちの罪の現実を示す姿でもあります。
 しかしそれでも主イエス・キリストは神の御計画の通り、この世にお生まれになりました。皇帝の命令に従って遠い旅をして疲れたヨセフとマリアの子として、イエス様はお生まれになったのです。
神の子に相応しい場所さえ与えられず、飼い葉桶に寝かされたその子こそが、世を救う救い主であったのです。
 神はそのようにして、この世の最も低いところへ自ら降って行ってくださいました。イエス様は生まれた時から、世の最も低いところに、小さく弱くされた人々と共におられたのです。
 ですからイエス様は、いつの世にあっても、最も苦しみ、低く、小さくされた人たちの思いと気持ちを完全に理解することがお出来になります。
イエス様は、弱く小さくされた人たちの苦しみをご自分のこととして、完全に理解をしてくださいます。
 そのようにして私たちのこの世界に、わたしたちの救いのためにお生まれになってくださったイエス・キリストの恵みに私たちは今一度思いを馳せて、感謝の日々を歩んでまいりましょう。