2023年4月8日土曜日

2023年4月9日主日(イースター)礼拝

招詞  エレミヤ書31章3節
賛美  新生讃美歌 241番 この日主イエスは復活された
主の祈り
信仰告白
献金
聖書  ヨハネによる福音書20章11~18節
祈祷
宣教  「わたしは主を見ました」
https://youtu.be/fRd2tff0byE
祈祷
賛美  新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
バプテスマ式
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷


 復活祭(イースター)の朝、聖書の御言葉によって、復活の救い主イエス・キリストの御言葉を私たち共に聞いてまいりましょう。
 今日の聖書箇所(ヨハネ福音書20章11~18節)は次の一文で始まっています。
「マリアは墓の外に立って泣いていた」
このマリアは、“マグダラのマリア”と言われた一人の女性です。ルカ福音書によれば、マグダラのマリアは、イエス様に悪霊を追い出していただいたことがある、という女性でした。

今日の場面で、マリアが墓の外に立って泣いています。その墓は、イエス様のお墓でした。イエス・キリストが十字架にかけられて死に、そして葬られた墓の前でマリアは泣いていました。
かつて自分から悪霊を追い出してくださった先生であるイエス様が死んだ、十字架の上で残酷に無残に殺されてしまった、そのためにマリアは泣き悲しんでいました。
それだけではありませんでした。今日の箇所の前の箇所に書かれていますが、マリアはイエス様が死んで墓に葬られてから三日目の朝早くに、イエス様の墓へと行きました。
そこでマリアは、墓の入り口から入口を塞いでいた石が取りのけてあるのを見ました。それを見てマリアは、「主(の遺体)が墓から取り去られた」と思ったのです(ヨハネ20:2節)

イエス様が死んでもういない~それだけでも、マリアは悲しみに打ちひしがれていました。しかし、そこにあるはずのイエス様のお身体がない、誰かが持ち去ってしまった(とマリアは思った)ことに、マリアは耐えられずに、墓の外で泣いていたのです。
イエス様が死んでもういない、そこにあるはずの遺体さえない、主は完全にいなくなってしまいどこにおられるか全く分からない~そのことでマリアは悲しみに打ちひしがれて泣いていました。

マリアが、そのように一人イエス様の墓の外で立って泣いている~主がもうおられない(どこにその体があるのかも分からない)という悲しみに打ちひしがれて泣いている姿から、わたしたちは幾つかの真実を知ることができると、わたしは思います。
それはまず、“主なる神がおられない、神がいない”という思い、そのような状況こそが私たち人間の悲しみ、苦しみの原因である、ということです。
“神がいない”と言う状況こそが、私たち人間にとって一番苦しく、悲しいことであるのです。なぜなら、聖書によれば、もともと人間は神によって造られ、神と共に生きる者であるからです。
わたしたち、そのことを真剣に考えてみましょう。神がいなくて人は生きることができるでしょうか?
人は神がいなくては本当の意味で生きていくことはできません。ところが人は、自らの意志で神から離れ、神から遠ざかり、“神がいない”と言う状況を自分から造り出してしまいました。
それが私たちの罪です。「神などいなくても生きていける」と思うことが、人間の大きな罪の一つです。「神がいなくては、人が真の意味で生きていくことはできない」というのが聖書が伝える重要なメッセ―ジの一つです。
そしてクリスチャンであっても、わたしたちは本当に神と共に御言葉に養われて生きているかどうかを、自分を吟味しなくてはなりません。

聖書の中に、次のような言葉があります。それは有名な聖書の言葉です。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
(マタイ4章4節、申命記8章3節)
聖書の神は、言葉を通してご自身を現わされる神でもあります。ですから、ここで「神の口から出る一つ一つの言葉」とは、神ご自身のことでもあります。
人は神と共に、神の言葉と共に生きるのです。神はおられます。聖書の御言葉がわたしたちにはあります。そして聖書の御言葉によって救われ、御言葉によって生きる、キリストの教会があります。
それらがいずれも、神は確かにおられるという証拠です。ですからわたしたちは常に、神がおられることを御言葉によって確信し、神が共におられることに真の希望を見いだして、生きていきたいと願います。

そして、マリアが一人泣いている、というその姿から教えられるもう一つの真実は、“神は、一人の嘆き悲しむ人を見てくださっており、その人と共におられ、その悲しみを分かってくださっている”ということです。
マリアは「もう主が私と共にいない」と思って泣いていました。しかし、主はマリアを見ておられたのです。主はマリアと共におられたのです。マリアがその真実を見ることができなかっただけなのです。
わたしたちの悲しみ、あるいは心の中の色々な思いが、わたしたちの心の目を曇らせ、わたしたちといつも共にいてくださる神を見えなくしてしまっているのではないでしょうか。
もしわたしたちが、“神が共におられない”という孤独や悲しみを感じる時には、泣いているマリアを見守りながら彼女と共におられた主なる神のことを思い出し、“主はわたしと共におられ、わたしの悲しみに寄り添ってくださっている”ことを思い起こしたいと願います。

泣きながらマリアは身をかがめて墓の中を見ました。するとイエス様の遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使がいました。
天使たちがマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と聞きました。マリアは自分が泣いている原因を答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」
 そう言ってマリアが振り向くと、そこにイエス様が立っておられました。しかし、マリアはそれがイエス様だとは分かりませんでした。
 イエス様が、(天使たちと同じように)「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と聞いても、それでもまだマリアはそれがイエス様だとは分かりませんでした。
 肉体の目がイエス様を見ても、肉体の耳がイエス様の声を聞いても、心の目と耳が神によって開かれなければ、わたしたちは主なる神を見て、その声を聴くことはできない、ということを、この場面は表しています。
ある人達は聖書を専門的に調べ、歴史的に正しいかどうかを学問的に検証しようとします。たしかに学問的な手法によっても聖書の御言葉を探求することは大切なことです。
 しかし、どれほど専門的な学問で聖書の御言葉を研究、検証したとしても、神の霊によって私たちの心が導かれることがないならば、また私たちが神に向けて自ら心の扉を開こうとしないのならば、神の御声を聴くことは決してできません。

 そしてまた大切なこと、それは常に最初に私たちに語りかけてくださるのは主なる神である、ということです。
 マリアはイエス様の姿を見ても、その声を聴いても、それがイエス様だと分かりませんでした。しかしイエス様がマリアの名前を先に呼んでくださいました。今日の16節で、イエス様が「マリア」と、名前で彼女を呼んでおられます。
 そこでマリアは、その人がイエス様であることがはっきりと分かりました。マリアは「ラボニ」(先生)と言って、答えました。
 イエス様が先にマリアを呼んでくださったのです。イエス様がマリアを彼女の名前で呼んでくださったのです。
 イエス様がマリアを名前で呼んでくださったのは、イエス様が生きている間に言っておられたことの実現でもありました。

 イエス様は、ご自分のことを羊飼いに例えてお話をされたことがあります。ヨハネ福音書10章の初めに次のように書かれています。
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているのでついて行く」(ヨハネ10:3~4節)
 その羊飼いとは、イエス様ご自身のことです。その譬えのように、イエス様は「マリア」と彼女(自分の羊)の名前を呼んでくださり、個人的に語りかけてくださいました。
 イエス様が名前を呼んでくださる、ということはイエス様がその人のことをよく知っておられる、ということを意味します。そしてそれは、呼びかけられた者がイエス様を自分の“良き牧者”として信頼できる、ということを意味します。

 そのように、復活のイエス様は今も生きて、私たちひとり一人を名前で呼んでくださっています。そのイエス様の御声をわたしたちは、霊と心の耳によって聞き分けていきたいと願います。
 そしてそのように私たちひとり一人を名前で呼んでくださり、語りかけて下さる主イエス・キリストに私たちは従って生きて行こうではありませんか。
 イエス様がマリアを名前で呼ばれたのは、“あなたはわたし(イエス)にとって、名もない大勢の中の一人ではない。あなたは大切なかけがえのない特別な一人だ”という意味でもあります。
 復活の主イエス・キリストは、今もわたしたちを“特別な尊い一人”として、私たちに向かって御言葉を通して、語りかけてくださっています。
 復活日の朝に、主イエス・キリストは確かに復活されました。主は甦ったのです。
キリストを信じる私たちが、霊と心の目と耳を開き、御言葉によって魂を燃やされ、生きるとき、主なる神が今の確かに生きておられることが、世に向かっても知らされていきます。
主の福音が力と喜びと共に、私たちを通して世に拡がっていくのです。そのような器として私たちが用いられることを、わたしたちキリストにある信仰者は喜びましょう。
 聖書の御言葉に基づいて、わたしたちは「わたしは主を確かに見ました」、「わたしは主の御声を確かに聞きました」と信じ、そのように証し(証言)することができるのです。
復活の主イエス・キリストによって生かされ、新しい命を今週、また新しい年度もまた私たちは共に生きてまいりましょう。復活祭(イースター)おめでとうございます。主は甦られました!