2023年9月2日土曜日

2023年9月3日 主日礼拝

招詞 詩編107編20節
賛美 新生讃美歌81番 父なるわが神
祈りの時
主の祈り
献金
聖句  ルカによる福音書4章1~15節
祈祷
宣教  「人はパンだけで生きるものではない」
https://youtu.be/s65g1iwgv8o
祈祷
賛美  新生讃美歌 103番 望みも消えゆくまでに
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷


 わたしたちの人生には誘惑、あるいは試練の時があります。苦しいこと、あるいは悪いことが立て続けに起こるような時もあります。
「なぜこのような苦しみが続けてわたしに起こるのですか。なぜですか?」と疑問に思うような時もあるでしょう。
そのような時、わたしたちは誘惑や試練にどのようにして向き合えばよいのでしょうか。

 今日の箇所はイエス・キリストが荒れ野で悪魔の誘惑に合った場面です。
私たちの主であり神であるイエス様ご自身が悪魔の誘惑に、その苦しい試練にどのように向き合ったのかを学ぶことで、誘惑にわたしたちはどう向き合ったらよいのかを学びたいと思います。

今日の箇所の最初の4章1節に次のように書かれています。
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

今日の箇所の前の章である3章で、イエス様は洗礼(バプテスマ)をお受けになり、そして30歳ぐらいの時に公の宣教活動を始められたことが書かれています。
今日の箇所である第4章はその直後の出来事です。イエス様はバプテスマを受けた直後に悪魔から誘惑を40日に渡ってお受けになったのです。
その40日間の誘惑の間、イエス様は何も食べずにいたので空腹を覚えた、と書かれています。40日間の絶食の後、イエス様は相当な空腹で苦しんでいたはずです。しかしそこで誘惑は終わらず、さらに厳しい悪魔からの攻撃がありました。

悪魔はイエス様に言いました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。
究極の空腹に苦しむイエス様にとっては、それは大変な誘惑でした。イエス様は神の子ですから、イエス様がそうしようと思えば、その時、石をパンに変えて自分の空腹を満たすこともできたはずです。
事実イエス様は後に、5つのパンと二匹の魚を祝福して祈ることによって増やして、お腹を空かせた5000人の人々をお腹いっぱいにしたことがありました。
ではなぜ、悪魔に誘惑に合われたとき、イエス様は石をパンに変えてご自分の空腹を満たそうとはしなかったのでしょうか。
イエス様はご自分が大変な空腹の状態で苦しかったにも関わらず、自分の苦しみから自分を救うために奇跡を起こそうとはなさいませんでした。
それほどの空腹の中で、悪魔の攻撃(誘惑)に会いながら、なおイエス様は「人はパンだけで生きるものではない」という神の言葉(旧約聖書『申命記』の中の言葉)が真実であることを、私たちに伝えようとなさったのです。

旧約聖書『申命記』8章3節には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と書かれています。
パン=すなわち、私たちが生きるために必要な食べ物はとても重要です。イエス様も「パン(食べ物)など重要ではない」とは決して言っておられないのです。
しかしイエス様は、悪魔の誘惑に対して、“私たち人を本当に生かすものは主なる神であり、そして主なる神の御言葉である”ということを、大変な空腹の苦しみの中から必死に叫ばれたのです。
私たちに絶対必要なパン(食べ物)を与えてくださるのも神なのです。ですから私たちはその神をまず信じ、神に信頼して生きるのです。

私たちは苦しみや疑問の中にあっても、私たちの命の源である神の言葉が私たちを本当に生かす、神が守ってくださる、というイエス様の必死の教え(お言葉)を胸に刻みたいと思います。
 神の言葉によって私たちは生かされている~この信頼と確信によって、私たちは悪魔からのどんなに厳しい誘惑にも立ち向かうことができるのです。
 悪魔は次にイエス様を高く引き上げて、一瞬のうちに世界のすべての国々をイエス様に見せました。そして、“あなたがわたしをおがむなら、この国々の権力と繁栄を、みなあなたにあたえよう”と言いました。
「この国々の一切の権力と繁栄」とは何でしょうか?

それは、“世界を自分の思う通りに支配する”ということでしょう。自分が願う通りに世界を変える、世界の人々が一瞬で自分を信じ(あるいは恐れて)自分の言うことに従うようになる~そのような力です。
これもまた、イエス様がそう望めば、そのような権力を悪魔からもらわなくても、イエス様はそうすることができたでしょう(一瞬で世界を変える)。
しかし、イエス様はそのように、人々(わたしたち)を無理やり支配して、無理やりご自分(神)に従わせようとはなさいませんでした。
そうではなく、イエス様は(すなわち神は)ご自分の御言葉を人々に伝え、それを聞いた人々が御言葉をまた別の人々に伝えることによって、ご自分の(神の)支配が拡がるようにされました。
長い年月がかかっても、人から人へと神の言葉が伝わり、そしてひとり一人が自分から心を開いて神の言葉を聞いて受け入れる。

そして神の言葉に感動をした信仰者が自分の意志で喜びをもって神に仕える~そのようにして神のご支配が拡がっていくように神は望まれたのです。
そしてイエス様は8節で「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。
とお答えになりました。
これは、自分の思いではなく神の御心を第一に求める、という姿勢です。

“権力と繁栄を手にして、自分の思い通りに世界を支配する(あるいは変える)”のではなく、“主なる神のみを拝み、神が望まれることに従おうとする”ということです。
自分が望むことよりも神が望むことを私たちは求めるべきなのです。ひょっとしたら誘惑や試練が苦しい原因は、私たちが自分自身の望みや考えに固執しているからかもしれません。
自分を手放し、神を第一にして、そして同じ信仰の兄弟姉妹同士で祈り合わせることで、自分の思いを越えた神の御心を私たちは知ることができます。みんなで祈って話し合い、神の御心を求めるのです。
その時私たちは“神である主を拝み、ただ主にのみ仕える”という信仰を実践していくことができるようになります。
私たちも教会として、「わたしたちに今、この場所で神から託された教会としての使命は何か、神は私たちの教会に何を望んでおられるのか」ということを共に祈り求めていきましょう。
 悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせ、「『神は天使に命じて、あなたを守らせる』と聖書に書いてあるのだから、ここから飛び降りてみろ」と最後に言いました。
 イエス様は、その誘惑の言葉も、『あなたの神である主を試してはならない』という、神への固い信仰(信頼)を表わす聖書のお言葉をもって、退けました。
イエス様は悪魔の誘惑に対し、聖書の御言葉をもって立ち向かわれました。聖書の御言葉はすなわち神の言葉です。神の言葉は、神ご自身の力を帯びて、悪魔の誘惑(試練)から私たちを守ってくれるのです。
わたしたちも、私たちを守ってくれる、そのような聖書の言葉をできるだけ沢山心に蓄えて、悪の誘惑と試練に立ち向かいたいと願います。

今日の箇所の最後の14~15節を見ますと、イエス様は悪魔の誘惑を退けた後、再び霊に満ちて、生まれ育ったガリラヤにお戻りになりました。
イエス様の評判は周りの地方一帯に広まり、そしてイエス様は諸会堂で教えて、皆から尊敬を受けられた、と書かれています。
神の子であるイエス様ご自身が、人と同じように、空腹という肉体上の大変な苦しみをご経験になって、そのような中で悪魔からの激しい誘惑の攻撃にあいました。
そしてイエス様は、悪魔のその厳しい誘惑に対し、神の御言葉をもって立ち向かわれました。そのようなご経験を通して、イエス様の語る言葉、イエス様のお教えになる言葉は一層力を持って人々に訴えるものになりました。

神の子であるイエス様が、ご自身の大変な試練を通して真実な神の言葉を語るのですから、そのお言葉にはどれほど凄い力があり、人々を圧倒したでしょうか。(そうであったことは間違いありません)
、聖書の御言葉を人に伝える時には、やはり自分自身がその御言葉に感動をしていなくてはなりません。自分自身が感動していない、あるいは信じていない言葉をどうやって真実として人に伝えることができるでしょうか。
 あるいは、私たちが疲れて力を無くし、落ち込んだときや悲しい時に、聖書の言葉が自分を支えてくれた~そんな経験も分かち合うことで、わたしたちは神の言葉の真実を他の人に伝えていくことができます。
私たち自身が信じている、真実の聖書の言葉を、また自分自身が受けた信仰の経験を、自分自身の言葉で私たちは人にも伝えていきたいと願います。そのようにして、神の言葉はたとえ少しずつであっても、世に拡がっていくのです。
イエス様は、聖書の言葉(その時イエス様が知っておられたのは、今の旧約聖書の御言葉)で悪魔の誘惑に対抗しました。
聖書の言葉は悪の誘惑に対抗する力があるのです。聖書の言葉は私たちが経験する試練に立ち向かう力になるのです。なぜなら聖書の言葉は神が私たちに与えられた力(信仰の武器)であるからです。
 私たちは、神の御言葉をもって荒れ野での悪魔の誘惑に立ち向かったイエス様のお姿に倣って、私たちも御言葉によって強められたいと願います。
 神の御言葉によって守られた私たちは、悪魔の誘惑さえも恐れる必要はないのです。神の力が私たちと共にあるのですから、そのことを信じ、神の言葉により頼んで私たちは信仰の日々を歩んでいきたいと願います。