2023年9月9日土曜日

2023年9月10日 主日礼拝

招詞  ペトロの手紙一 2章11節
賛美  新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
献金
聖句 出エジプト記2章11~25節
祈祷
宣教 「モーセの逃亡」
https://youtu.be/_jjruFfqTEI
祈祷
賛美 新生讃美歌297番 主によりてあがなわる
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷

 旧約聖書『出エジプト記』の中で描かれる、モーセの物語を通して、私たちは今日も神のメッセージを聞いていきたいと思います。
 モーセは聖書に登場する人物の中でも最も偉大な人物の一人です。400年間エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民を救い出し、エジプトから脱出させる指導者としての役を彼は後に担うことになります。
しかし聖書はいかなる人間も、完全な人間として描きません。それはどんな人間も完全ではないからです。どれほど偉大な業績を残した人物であっても、聖書は彼ら彼女らが犯した過ち、あるいは弱さをも、はっきりと記しています。
偉大だと言われたダビデ王も、自分の兵士であった男の妻と関係を持ち、彼女を妊娠させました。そのことを隠蔽するために、ダビデはわざとその兵士(ウリヤ)を戦場の最前線に置いて戦死させました。

イエス・キリストの一番弟子であったペトロは、「あなたと一緒に死ななくてはならなくても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と豪語していました。
しかしイエス様が捕まった最後は結局、「わたしはあんな人のことは知らない」と言って、(イエス様が予言した通り)三度もイエス様のことを否定しました。

 今日の箇所でも、モーセにとって、消そうにも消すことのできない、彼が犯した大きな過ち、罪の一つが描かれています。
 エジプトに住むヘブライ人の子として生まれたモーセは、生まれた後三ヶ月間、母親によって隠されていました。増えすぎるヘブライ人を恐れたエジプト王のファラオが、国中で生まれる男の子は全員ナイル川に放り込むように、と命令していたからです。
三ヶ月以上は隠しておけなくなり、モーセの母親は赤子のモーセをパピルスの籠に入れ、ナイル川の葦の茂みの中に置きました。それをエジプトの王の王女が見つけ、何とモーセの実の母親が乳母としてモーセに乳を与えることになりました。

そしてモーセは大きくなるとファラオの王女に引き取られました。それ以降のことは聖書には詳しく書かれていませんが、モーセはエジプトの王宮で暮らし、そこで成人しました。今日の箇所はそれからの話です。

今日の箇所の最初の11節に次のように書かれています。
11モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。

どのようにしてかは分かりませんが、モーセは自分がヘブライ人だということを知っていました。おそらく、彼が成長する過程で、ファラオの王女がそのことをモーセに伝えていたのはないでしょうか。
 モーセは成人して、王宮を出て同胞たちのところへ出て行きました。同胞たちが重労働に服しているのを目にして、彼の胸は痛んだでしょう。また彼はそのことに怒りも感じたでしょう。
モーセは一人のエジプト人が同胞のヘブライ人の一人を打っているのを見ました。モーセはそこで辺りを見回してだれもいないのを確かめた後、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めました。

 「一人のエジプト人が同胞のヘブライ人の一人を打った」の“打った”は“打ち殺した”という意味だという解釈もあります。
そうであれば、モーセは殺された同胞の仇を取ったということになります。しかし、モーセは打ち殺したエジプト人の死体を隠しました。それはモーセの良心が、“自分がしたことは間違っている”と、彼に告げていたからだったと私は思います。

 その良心の声を、モーセはその時はっきりとは聞くことができなかったかもしれません。しかし“隠す”という行為は、モーセ自身に後ろめたい思いがあったということ、そして“これは人に知られてはいけない”という意識が彼にあったことを、示しています。
 一時の怒りと憤りに駆られて、同胞のヘブライ人を打った(殺した)エジプト人を打ち殺した~まったく理解できないことではないとしても、それはモーセの生涯を通して残る彼が犯した大きな過ちの一つでした。

モーセは、そのエジプト人の死体を砂に埋めることで、自分のしたことは隠し通せると思っていたのでしょう。しかし、その罪は隠されたままではいませんでした。そのことは人に知られていた、ということがすぐに分かります。
 次の日にモーセがまた出て行くと、今度はヘブライ人同士が二人でけんかをしていたのです。
モーセが悪い方の人に向かって「どうして自分の仲間を殴るのか」と聞くと、その人は「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」とモーセに言いました。
 その言葉はモーセを恐れさせました。前の日に、自分がエジプト人を打ち殺したことが知られてしまっていたからです。
また「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」という言葉も、モーセの胸に突き刺さったでしょう。モーセは正義感も強かったと思いますが、感情が激しく、その激しい感情に駆られて、突発的に行動してしまう人だったようです(少なくとも、この時はまだ、そのようであった)。

前の日にエジプト人を打ち殺したことをモーセは思い出し、自分だけの正義感、または怒りに駆られて人の命を奪ったことの罪深さをも、彼は思い知らされたのではないでしょうか。
 そして自分でも気づかぬうちに、“監督や裁判官”のような気になって、他人のことを裁いていしまっている、と言う自分にもモーセは気づかされたのだと思います。
 私たちも気をつけていないと、いつも自分が監督や裁判官であるような気になり(“自分が正しいと”思い)、他者のすることを裁いてしまうことがあります。
 祈りとそして御言葉を通して、そのような自分自身にも私たちは気づいていきたい、他者を裁かないようにしたいと願います。

 モーセのしたこと(彼がエジプト人を打ち殺したこと)はエジプト王のファラオの耳にも届きました。そしてファラオはモーセを殺そうと尋ね求めました。
モーセはファラオが自分の命を狙っていると知り、ファラオの手を逃れてミディアンの地方へ逃れて行きました。そこでモーセは井戸の傍らに座りました。
モーセは本当に途方にくれ、“これからどうしようか”と考えていたでしょう。
 自分が犯した殺人の罪が知れ渡り、エジプトの王に命を狙われる~モーセにとっては絶対絶命の状況になりました。しかし、それでも神の守りと導きはモーセを離れることはありませんでした。
 モーセがいた井戸に、女性たちが羊の群れに水を飲ませるためにやってきました。彼女たちは、あるミディアンの祭司の娘たちでした。そこへ羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払ったと書かれています。
 力の弱かった女性たちは、井戸から水をくんで羊たちに飲ませる機会をその男の羊飼いたちから邪魔されたか、あるいは横取りされたということでしょう。
モーセはそこで立ち上がって娘たちを救い、彼女たちの羊の群れに水を飲ませてやりました。娘たちは父のもとへ帰ると、父親はいつもよりずいぶん早く帰ってきた娘たちに、「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と聞きました。

娘たちは“一人のエジプト人が羊飼いの男たちから自分たち助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました”と答えました。
 モーセはエジプト人ではありませんでした。ヘブライ人でしたが、娘たちはモーセをエジプト人だと思ったというのです。エジプトの王宮で育ったモーセには、その言葉や振舞いもエジプト人を思わせるものがあったのでしょう。
 娘たちの父親は、“その方を放っておかないで、呼びに行って、食事を差し上げなさい”と言って、娘たちにモーセを呼びに行かせました。モーセは彼女たちの家に来て、そこに留まる決意をしたので、父親(レウエル)は娘のツィポラをモーセと結婚させました。
 モーセとツィポラの間に男の子が生まれ、モーセはその子をゲルショムと名付けました。ゲルショムとは”寄留者(あるいは外国人)”を意味するヘブライ語です。
 モーセが息子を“ゲルショム”と名付けたのは、彼が「わたしは異国にいる寄留者だ」と言ったからだと、書かれています。
 「わたしは異国にいる寄留者」~それはどういう意味でしょうか。モーセは自分がヘブライ人であることを知っていました。ですから、エジプトの王宮にいる間も彼は自分がそこでは寄留者(外国人foreigner)だと思っていたのでしょう。
 そしてエジプトを逃れてミディアンへ逃れなくてはならなくなり、そこでもまたモーセは“寄留者”であったのです。そのことをモーセはどう感じていたのでしょうか?「自分はどこへ行っても寄留者(外国人)だ。。。」と思っていたのではないでしょうか。
 本国に住む者ではない、“わたしは寄留者だ”という事実に、モーセは一抹の不安や悲しさをも覚えていたのではないでしょうか。
 この“寄留者”という言葉は、聖書を通して重要な意味を持っています。それは“私たち人は誰もがこの地上においては寄留者である”ということです。
 わたしたちは神から命をいただいて、この地上で生きる者となりました。私たちは神のご計画により、それぞれ色々な地域や国で生まれます。

 しかしこの地上での生まれ(出自)に関わらず、聖書は次のように言います。

フィリピの信徒への手紙3章20節
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

出エジプトの出来事は紀元前1300年頃のことだと言われています。まだイエス・キリストが人としてお生まれになるずっと前(1300年前)のことです。
しかしキリストは神であるお方ですから、時代を越えて、いつの時代にもおられたお方であり、今も霊によって私たちと共におられるお方です。
そのイエス・キリストが、そこから私たちの救い主として来られる場所~そのような天に私たちの本当の国籍(市民権)はある、と聖書はいうのです。そのような意味において、わたしたちは誰もがこの地上では寄留者(外国人)なのです。
わたしたちは互いに寄留者として、この地上で互いに助け合い支え合って生きていくのです。私たちは決して互いに争ったり、命を奪い合ったりして生きていくように神から造られたのではないのです。
天の父なる神が、出エジプトの時代、モーセを導き、彼に使命をお与えになったように、今の私たちにも神の導きがあり、また神が私たちひとり一人に与えておられる使命があります。
その使命が何であるのか~わたしたちは日々聖書に聴き、祈り、共に神を礼拝しながら神が私たちに与えておられるご計画と使命を知り、それに従って歩んでいきたいと願います。