2023年9月30日土曜日

2023年10月1日 主日礼拝

招詞 イザヤ書61章1節
賛美 新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
祈りの時
主の祈り
献金
聖句 ルカによる福音書4章16~30節
祈祷
宣教  「貧しい人に福音を知らせるために」
https://youtu.be/9GOSrku-0Nk
祈祷
賛美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


 今日は新約聖書の『ルカによる福音書』の中から、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいります。
 福音書の中には、イエス・キリストが人としてお生まれになって、この地上でなさった色々な業(奇跡の行いなど)、そしてイエス様が人々に伝えた言葉や教えが記録されています。
 マタイ福音書とルカ福音書にはイエス様の誕生の記録が記されています。しかし、イエス様の幼少時代については、どの福音書もほとんど記していません。
 福音書の中でイエス様の幼少時代について伝えている箇所は、ルカ福音書2章の最後に描かれている、イエス様が12歳の時に過越しの祭りで家族と一緒に、故郷のナザレからエルサレムは旅をした時の話が唯一のものです。
 エルサレムからの帰り道、息子のイエス様が自分たちの中にいないことに気づいたヨセフとマリアはエルサレムに引き返して行きました。そこで神殿の中で学者たちの真ん中に座り、話しをしたり質問をしたりしているイエス様を見つけた、という話です。

 今日の箇所は、イエス様が30歳ぐらいになり、公の宣教活動(神の国を人々に伝える活動)を始めた後の話です。
 しかし、今日の箇所の最初の一節(4章16節)に、イエス様が子どものころからどのようにお育ちになったのかが、少し伺える内容が含まれています。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
 イエス様は各地の会堂で教え、すでにその評判は広まり、各地で人々から尊敬を受けるようになっていました(4章14~15節)。そして今日の箇所でイエス様は自分がお育ちになったナザレの町に戻ってきます。
そこでイエス様は「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」と書かれています。
「いつものとおり」as was his customとは、毎週の安息日(ユダヤ教の安息日は土曜日)に、会堂で礼拝することがイエス様の習慣になっていたということです。
 なぜ礼拝に出席することがイエス様の習慣になっていたのか。それは、イエス様が、ヨセフとマリアに育てられる間に、毎年一回過越祭にはエルサレムの神殿へ旅をしていたように、おそらく毎週の安息日の会堂の礼拝へも、ヨセフとマリアに連れられてイエス様は出席していたのだと思われます。
 つまり、安息日を大切にし、その日には神を礼拝するということが、幼少時からの信仰習慣としてイエス様に教えられ、そのことが身についていたということです。

 神の子であるイエス様も、幼い頃から家庭で、そして定期的な礼拝(集会)出席を通して神の教えを学ばれたのです。
 そうであるのならば、私たち今のキリスト者としても、毎週の礼拝、その他教会の集会がいかに大切であるかが分かります。
私たちは礼拝で、聖書の言葉(神の言葉)を共に聞き、分ち合います。今わたしたちが聞くべき神の言葉を私たちは共に聞くのです(そうすることができるのです)。
「今日神様は私にどんな御言葉を語ってくださるか」と期待をしながら、私たちも礼拝に参加しようではありませんか。そして礼拝出席を誠実かつ、喜びを伴なった信仰習慣としていきたいと私たちは願います。
 イエス様は今日の箇所で安息日に会堂に入られ、そして聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。イエス様は、“聖書の言葉、すなわち神の言葉を聞き、それを分かち合う”ことを率先して行っておられます。

 イエス様の時代の普通の人々は、今のような形態の本などはありませんから、聖書の言葉を聞こうと思えば、会堂に来てそこで朗読される聖書の言葉を聞くしか方法がなかったでしょう。
 今の私たちは自分の聖書を各自が持っていますし、聖書だけでなく、色々な教会の宣教(メッセージ)も、インターネットを通じて読むこと(聞くこと)もできます。
 聖書の御言葉と聖書に基づいた宣教を聞くということであれば、もはや教会に来なくても可能です。それでも、私たちは教会に集まることを大切にします。
 コロナ・ウィルス感染症の拡大で、私たちは教会にみんなで集まるということについて、それまでなかったほどに考えさせられました(今も考えさせられている、とわたしは思います)。
しかし、やはり私たちが同じ時に、聖書の言葉を皆で一緒に聞くことができる(分かち合うことができる)というのは、私たちにとって大きな喜びであり、恵みです。

 私が若いころに、ラジオを聞いている時に(今の若い方は、ラジオを聞くことはあるのでしょうか?)、自分が好きな音楽や自分が好きな曲がラジオから流れて来ると、とても嬉しい感じがしました。
 好きな曲はいつもCDで聞いているにも関わらず(今の若い方はCDで音楽は聞かないのですよね?)、それがラジオという公共の放送で流されると、とても嬉しい気持ちがしました。
 ある時私は「ラジオから自分が好きな曲が流れて来るとなぜ嬉しいのだろうか?」と、その理由を考えてみました。
自分で思いついたその理由は「自分が好きな曲を、自分は知らない(遠くにいる)とても多くの人たちが、今この同じ瞬間に一緒に聞いている」という事実が嬉しく感じられるのだ、と思いました。
 好きな曲を通して、見ず知らずの大勢の人と自分が繋がっているような、一つの連帯感のような感覚が私にとって嬉しかったのだと思います。
 好きな音楽でもそのように嬉しいのですから、まして神の言葉を私たちが他の人たちと一緒に(同じ時に)聴くことができるとは、何と幸いなことでしょうか。

 今神がこの私だけでなく、私以外の人々に向けても同時に語ってくださっていると信じることができるならば、それは本当に大きな信仰の喜びなのです。
そのようにして神の言葉が聞かれ、分ち合われる教会、そのことを喜ぶ私たちはありたいと願います。

 イエス様に、イザヤ書の巻物が渡され、イエス様は以下の御言葉をお読みになりました。18~19節をお読みします。

18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
19主の恵みの年を告げるためである。」

 これはイザヤ書に書かれている神の恵みの言葉です。神の慰めの言葉です。「貧しい人に福音が告げられる」、「捕らわれている人は解放される」、「目の見えない人は見えるようになる」、「圧迫されている人は自由になる」という約束の言葉です。
 20節に、イエス様が巻物を係の人に返して、自分の席に戻って座ると、会堂にいるすべての人の目がイエス様に注がれた、と書かれています。
 当時は会堂の礼拝に参加した人の中の誰かが聖書を読み、そしてそこから奨励のメッセージをすることが習慣だったようです。
会堂の人々は「さあ、今の箇所からあなたは何を教えてくれるのか」と期待をして、イエス様が何かお話しになるのを待っていたのでしょう。
 そこでイエス様は驚くべきことをおっしゃいました。21節に、イエス様が次のように言ったと書かれています。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
 イエス様は、「今読んだ聖書の箇所(イザヤ書の言葉)の意味はこういうことです。こういうことを私たちに教えているのです」というのではなく、「この聖書の言葉、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」=「わたしがこの聖書の言葉を実現する者だ」と言ったのです。
 イエス・キリストは、聖書の御言葉を私たちに解説してくれる先生ではないのです。何か人生を生きるのに役に立つ方法(私たちにとって得な話)を教えてくれるお方でもありません。
 そういう側面がイエス様に全くないわけではありませんが、私たちは何よりもイエス・キリストご自身が、聖書の御言葉(神の御心)の成就だ、という今日の箇所の中心メッセージに向きあわなくてはなりません。
 皆さんはそのことが本当に信じられますか?「イエス様の言っていることが素晴らしい」、「イエス様の教えはとても役に立つし、感動的だ」ではなくて、それ以上にイエス・キリストご自身が神であり、神の言葉である聖書の成就をだということを、私たちは信じているでしょうか。

 イエスは主 Jesus is Lordと、私たちは本当に信じることができますか?と今日私たちは問われているのです。イエス様を主として、イエス様に従って生きていく覚悟(そしてその希望)がありますか、と私たちは問われています。
 今日の箇所で、会堂でイエス様のお話を聞いた人たちは、その話があまりに恵み深いのでみんな驚いて感動した、と書かれています。(22節)。
 「この人の言っていることは素晴らしい」と誰もが思ったのです。しかし、同時に人々はこうも思いました。「この人はヨセフの子ではないか」。
 イエス様はその時、自分がお育ちになったナザレの会堂にいました。ですからその会堂にいた人たちも、イエス様のことを小さなころから知っていた人も多かったでしょう。
 しかしその小さいころから知っていた人の口から出る言葉は、神の恵みの言葉でした。神の言葉こそが人を慰め、人に神の恵みを確信させる力があるのです。
 しかし、中にはどうしても疑う人がいました。神の言葉が語られているのに、そのお方を蔑もうとする人がいたのです。
その人たちはこう言いました。「この人はヨセフの子ではないか」。つまり“わたしたちはこの人の父親ヨセフも知っている。この人は大工の子だ。そんな人から(ただの人間から)恵み深い神の言葉が出て来るはずがない”と彼らは思ったのです。

 わたしたちも、たとえどれほど恵み深い聖書の御言葉、力強い神の御言葉を聞いても、それを私たち自身の頑なさや傲慢さ、あるいは怠惰な性質が、そのような神の言葉を聞くことを邪魔し、拒んでしまうということがあり得ます。
 それでも神は人となられ、イエス・キリストとして恵みの言葉、福音をわたしたち貧しい者に伝えてくださいました。
 わたしたちが、その罪の性質のために、神の恵みをあまりにしばしば拒んでしまうことがあり得ることを十分にご存知でありながら、なお神はイエス様を御子としてこの世に送ってくださいました。
 神は今この時も変わらずに御言葉を語り続けてくださっています。私たちが御子イエス・キリストの名によって集まるこの集会は神によって聖別(取り分けられた、神によって呼ばれた)特別な集まりであるからです。
 今も変わらぬ御言葉の恵みに与ることのできる幸い、共に御言葉を聞き分かち合うことができることを私たちは喜び、福音(良き知らせ)によって今週の日々も私たちは生きていきたいと願います。