2023年9月16日土曜日

2023年9月17日 主日敬老礼拝

招詞  ヤコブの手紙1章5節
賛美  新生讃美歌538番 神はわがやぐら
主の祈り
献金
聖句  ヨブ記12章7~13節
祈祷
宣教  「知恵と力は神に属する」
https://youtu.be/1PhVVUG46w0
祈祷
賛美  新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷

 今日は「敬老礼拝」として、年長者の方々を私たちが敬い、年長者の方々に神の祝福と、そして健康と平安とが豊かに与えられることを共に願い、感謝をする礼拝をお献げしています。
 今日を「敬老礼拝」と私たちがしていますのは、明日9月18日(9月第三月曜日)が「敬老の日」として、日本では国の祝日になっていることに関連があります。
 日本の祝日としての「敬老の日」の始まりは、兵庫県多可郡(たかぐん)野間谷村(のまだにむらー当時の名前)が、1947年9月15日に主催した村主催の「敬老会」だとされています。

 その野間谷村の敬老会が段々と兵庫県全体に広まっていきました。やがて1966年には、全国で国民の祝日となりました(意外とその起源は新しいのですね)。
 最初に野間谷村で敬老会が開かれた趣旨は「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」だったそうです。(ちなみに、その時の敬老の対象者55歳以上の人たち!)
 年長者の方は、その長い人生の経験から、豊富な知恵を身につけています。年長者は体力的には段々と衰えてくることがあります。しかし「年長者の知恵から、若年者は学ばなくてはならない」―それは今でも確かなことだと私は思います。
 しかし、年長者は自分が色々と経験していると思うがために、「若い者たちは何も分かっていない」、「若い者たちが失敗をしないように、年長者の自分が教えてやらなくてはいけない」と思うこともあるのではないでしょうか。
そうであれば、そのような態度には注意が必要ではないかと私は思います。
 私がそのように言いますのは、実は私自身が既にそのような考えを持ち始めていると感じているからです。特に自分のこどもたちがすること(選択すること)に対して、かつて私自身が経験した失敗や経験から、色々教えたくなる(口出ししたくなる)のです。
 「私(お父さん)は、かつてこういう失敗(失敗とまでは言えなくても、別の道を選んだほうがよかった、という経験なども含む)をしたから、君たちは同じことをしてはいけないよ」という思いを持つことがわたしにはあります。
私としては、子供たちのことを思って、善かれと思ってアドバイスしているつもりなのです。
しかし、私は気を付けていないと、子供たちは私とは別の人間(独立した別人格)であることを忘れてしまい、自分の意見や意向を子どもたちに押し付けているのではないかと思わされるのです。
「子供たちのため」というより、「わたしが子どもたちにこうしてほしいと思う=つまり、私のため」に色々と口だししているのではないか、と反省することがあります。

ずっと以前のことですが、私の出身教会の礼拝に、イギリスのご家族の方達が来られたことがありました。奥さんが日本の方、夫がイギリスの方で、小学生ぐらいのお子さんが二人いらっしゃったと思います。
その方たちは、自分たちはイギリスのバプテスト教会の会員だとおっしゃっていました。
 私はそのご夫婦と礼拝の後で少しお話しを伺う機会がありました。その方たちの教会は50~60人ぐらいの教会だと言っていました。
そして教会で起こる問題の一つとして、若い世代の自分たち(そのご夫婦は、三十代か40代初めだったと思います)が「教会で、今度こういうことをやってみましょう」と提案したりすると、年長者の会員からよく反対されることがある、というのです。
“今度こんなことをやってみましょう”と新しいことを提案すると、よく年長者のメンバーたちから“それは、同じようなことを私たちも昔やってみたが、うまくいかなかった。だからやめたほうがよい”と言って反対されることがよくある、と言うのです。
 その方たちは「たとえ同じ事でも、昔と今では状況が違うし、今やってみれば、また違う結果がでるかもしれないのに、と思います」と言っておられました。
それを聞きながら、世代間の意見の違いとか、年長者と若者との間の問題は、どこの国でも変わらないな、と思わされました。

人間が年齢と経験を重ねることで得られる“知恵”は尊いものです。しかしそれは決して絶対ではありません。まして一人の人間の知恵や経験には限界があります。
私たちはお互いに、年齢の差に関係なく、年長者も若い人たちも、お互いを神の前に対等な者同士として尊重しあわなくてはなりません。
 年を重ねることで得られる経験や知恵も尊いものです。しかし、それらはすべて、主なる神から私たちに与えられるものである、ということを私たちはいつも覚えていたいと願います。

 今日の聖書箇所は『ヨブ記』12章から私は選びました。12章12~13節に次のように書かれています。

12知恵は老いた者と共にあり/分別は長く生きた者と共にあるというが
13神と共に知恵と力はあり/神と共に思慮分別もある。

13節の「神と共に知恵と力はある」それを私は今日の宣教題(知恵と力は神に属する=英語訳から)としました。そしてこれが今日のメッセージの結論なのです。
 12節にあるように人間の社会一般では「知恵は老いた者と共にあり 分別は長く生きた者と共にある」と考えます。それは間違いではありません。
 しかし、主なる神を信じる信仰者は、“私たちが生きるための真の知恵、そして生きるための真の力は、主なる神と共にある”というこの聖書の御言葉を信じます。
 ですからたとえ年が若くても、本当の知恵と力とは、主なる神の御言葉にいつも耳を傾けているかどうか、にかかっています。
今日は「敬礼礼拝」ですから、年長者の方を私たちが敬う主旨のメッセージを期待されているのだと思いますが、どちらかと言うと年長者の方を戒める(教える)ような方向のメッセージになってしまい、申し訳ありません。
しかし、礼拝の宣教は私たちが共に神の教えとみ言葉を聞くことですから、敬礼礼拝の今日も、私たちは老いも若きも共に神の言葉によって教えられたい、神の言葉によって共に祝されたいと願うのです。

今日の箇所のヨブ記12章7~10節は次のように言います。

7獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。
8大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。
9彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。
10すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。

私たちは野の獣から(動物から)、空の鳥から、そして大地から、そして海の魚からも教えられるのです。
 私たちはどれほど年を重ねても、へりくだって自分以外のあらゆるものから(人からも、自然の事物からも)教えられて学ぶ、という態度を持たなくてはならないのです。
 旧約聖書の最初の『創世記』は、神が人間をお造りになって、そして神が人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃったと記します(創世記1章28節)
 しかし、創世記での神のその言葉は、「人間は他の生物よりもあらゆる面で優れていて、最高の知恵を持っているから、人間は自分がただ望む通りに、他の生き物を、この世界を支配してよい(利用してよい)」ということではありません。
 それは今日のヨブ記のような箇所で「獣からも、空の鳥からも、海の魚からも教えてもらいなさい」と言われていることからも、明らかです。私たちは、いつも謙虚に学ばなくてはならないのです。
 獣や空の鳥、海の魚、そして大地は何を私たちに教えてくれるというのでしょうか?それが9~10節に書かれています。

9彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。
10すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。

獣も鳥も、魚も、彼らはみんな「主なる神の御手が、この世界のすべてのものを造られた」ということ、そして「すべて命あるものは、人間の霊(息)も神の御手の内にある(守られている」ということを知っている(そのことを私たちに教えてくれる)、というのです。
 ところが私たち人間はそれらのこと(神がすべてのものを造られたこと、命あるものは全て神の御手の内にあること)を忘れてしまい、傲慢になってしまいがちです。
 私たちは“自分は何でも知っている”、”私は自分の力で生きている”と思い、勘違いしてしまうことが多いのです。そして私たちは自分以外の他者や自然や生き物などからも学びなさい、という聖書の教えに従えなくなってしまうのです。

 イエス様の次のように教えられました。それはイエス様のお言葉のうちでとても有名なお言葉です。
マタイ6章26節
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

イエス様はその後で「野の花がどのように育つのかも注意して見なさい」と言っておられます。
イエス様は、“栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか”と言われました。
 空の鳥が、そして野の花が私たちに教えてくれるのです。“私たちは神によって造られて、神によって命与えられ、そして神によっていつも守られている”と彼らが私たちに教えてくれるのです。
聖書が伝える知恵とは「神を知る」ということです。神を知るとは、真の神なるイエス・キリストを知る、命の源であるイエス・キリストの愛を知ることです。
聖書が伝える知恵とは、私たちは(生きるものはすべて)神によって造られ、守られ、そして神の御手のうちに生かされているということを、イエス・キリストの御愛を通して知ることです。
そのような神の知恵を知らされた私たちは互いに敬い、お互いに謙虚に教え合い仕え合って生きる者となるのです。
 そのような神からの知恵を、私たちはこれからも聖書の御言葉から、共にこうして神を礼拝することから、そして共に祈り合うことから、ますます豊かに頂いていきたいと願います。
今日は「敬老礼拝」です。神が与えて下さる長寿を、そして老いも若きもそれぞれに神から与えられた命の日々を私たちは感謝いたしましょう。
常に神の御手に守られた私たちが、神の言葉、神の知恵を頂いてそれに従って歩むとき、私たちには信仰によるあらゆる希望と喜びが約束されているのです。恵みの神に感謝をいたします。