2023年9月23日土曜日

2023年9月24日 主日礼拝

招詞  詩編116篇8節
賛美  新生讃美歌1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
主の晩餐
献金
聖句 コリントの信徒への手紙二 1章1~2節
祈祷
宣教  「神の教会、わたしの教会」
https://youtu.be/apZM7bZB8DA
祈祷
賛美  新生讃美歌639番 主の恵みに生きる
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷

今日からまた、一ヶ月に一回ぐらいの割合になりますが、『コリントの信徒への手紙二』の御言葉から、礼拝の中で私たちは神のメッセージを聞いてまいります。
 イエス・キリストの福音(神の良き知らせ)を、ユダヤを越えて広く地中海世界へと知らせた伝道者パウロが、ギリシアのコリントという都市の信者たちに宛てて書いたこの手紙の中には、神からのメッセージが込められています。
 パウロは、手紙の慣例に倣って、挨拶の言葉からこの手紙を書き始めています。

1節をもう一度お読みします。
1神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。

 「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」~パウロは自分のことをこのように言っています。
 使徒(an apostle)とはどんな人かについて、新共同訳聖書巻末の「用語解説」は次のように説明しています。
「イエスが弟子の中からお選びになった『十二人』。イエスの復活の後は、教会の最高の職位として宣教の責任を持つ者を意味した」
パウロは、イエス様が生きておられた時には、イエス様に直接会ったことはない人でした。復活のイエス・キリストがパウロに現れてくださって、パウロは生き方を劇的に変えられたのです。

 それまではキリスト教徒を激しく迫害していたパウロが、それからは自分の命をかけてイエス・キリストを人々に宣べ伝える「使徒」となったのです。
 パウロは「神の御心によって私は使徒とされた」と言います。「神の御心 the will of God」と訳されている元のギリシア語の言葉は、「神の願い(神が望まれたこと)」という意味にもなります。
 そうであれば、パウロは自分のことを、「神がこの私をイエス・キリストの使徒となるように望んでくださった」と思っていたということになります。
 「神がこのわたしを選び、イエス・キリストの福音を伝える使徒としてくださった」という思い(その事実)が、パウロを支えていたのです。
 「神がそう望んでくださった」という思いが、苦しい伝道活動の中でも、パウロに力と希望を与え続けたのです。

 「神が私を選んでイエス・キリストの使徒、また教会の責任者にした」という確信は「だから、人々は神に選ばれたこの私の言うことを何でも神の言葉として聞くべきだ」という思いにはなりません。
 信仰の群れの指導者がそのように思い始めたら、それはカルト化の始まりです。「神によって選ばれた」という思いは、むしろそう信じる者を一層謙虚にするはずです。
 「神がこのわたしを選んでくださった」という信仰は、教会の指導者だけでなく、そう信じるキリスト者全員を神の前に、そして人にたいしても謙虚にするはずです。
 信仰が深まり成熟し、イエス様の御愛を知れば知る程、わたしたちは「いかに分不相応な測り知れない恵みを頂いているのか」ということを知らされるのです。
「神の御心と憐れみによって救われ、キリストを信じるクリスチャンになることができた」と心から実感する者は、自分の罪の深さに気づかされます。

聖書の別の箇所ですが、関連する箇所を引用します。
テモテへの手紙一1章12~15節です。それも使徒パウロの言葉です。

12わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
13以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

「わたしは、その罪人の中で最たる者です。 Of whom I am the worst」~この告白を、キリスト教史上最高の伝道者と言ってもよいパウロがしていることを、私たちは本当に真剣に捉えなくてはなりません。
「罪人の中でも最たる者であるこの私を神が赦してくださった。罪人の中でも最たる者この私を神が選び、神のご用のために用いてくださっている」という思いが、パウロの中で大きな喜びとなっていたのだと私は確信します。
 神がわたしたちキリスト者をお選びになったのは、私たちが優れていたからでも、また私たちが決して間違いを犯さないからでもありません。
 神はただ私たちのことを愛してくださっているので、私たちを選び、私たちを呼び、私たちがキリストを信じキリストに従って生きる者へとしてくださったのです。

 教会の群れの指導者は、「神に選ばれた自分は間違いを犯さない」とは決して思いません。なぜなら選ばれた指導者も人間であるからです。
 むしろ信仰の指導的立場にある者は、自分も間違いを犯す者であることを自覚し、もし間違いに気づかされた時には、へりくだってその事を反省し、問題解決や問題が良き方向へ改善されるために努力をすべきです。
 牧師である私のような者や、また信仰の群れの指導的立場にある者たちのことを覚えて、皆さんには今一度、そのために祈って頂きたいと私は心からお願いをいたします。
 パウロはこの手紙を「コリントにある神の教会(そしてアカイア州の全地方に住むすべての者たち)」に向けて書いています。「コリントにある神の教会」という言葉にも私たちは注目したいと思います。

 ギリシアのアカイア州と言われた地域の首都コリントのコリント教会は、もともとパウロの伝道によって始められたパウロが立てた教会です。
『使徒言行録』の18章に、パウロがコリントへ行った時のことが書かれています。パウロは1年6ヶ月の間コリントに留まり、人々に神の言葉を教えた、と書かれています。
 パウロが作ったと言ってよい教会であっても、パウロは決してその教会を「わたしの教会」とは言いませんでした。クリスチャンが自分の教会のことを「わたしの教会」と思うことは間違ったことではありません。
 むしろ信仰の群れに属すること、「わたしにとっての神の家族」という意味で、わたしたちは自分の教会を「わたしの教会」と感謝と愛をもって呼びたいと願います。

 しかしもし私たちが自分の教会のことを「わたしの教会」と呼んで、「わたし(わたしたち)の思い通りになるべき教会」とか、教会の指導者であれば「わたしが所有している教会」などと思うとしたら、それは大変な間違いとなります。
 教会は、神が立てられた神の教会です。教会はイエス・キリストの体です。私たちはキリストの体である教会の一部とされていることに、大きな喜びを見いだします。
私たちは教会につながることで共に祈り、御言葉に生き、そして神の御心(神が何を望まれているのか)に従って、信仰生活を歩んでいきます。
わたしたちの教会は神の教会です。教会の権威、教会の所有権は神にあります。私たちは神のその権威に仕えるものです。そして神の信仰の群れにつながって生きるものです。
かつて私の出身教会へ、別の教会から転入会をされたかたがおられました。そのお方(女性)が、新たな教会にご自分が加わることを、「群れに加えていただけることが本当に嬉しい」と表現されました。

正直、そのお方のそのお言葉を聞いて「何と謙遜なお方なのだろう」と思うと同時に、「信仰の群れに加わっている」という喜びを改めて知らされました。
正直私にはその時まで、「信仰の群れ(教会)に加わっている(つながっている)という喜び」をあまり実感していなかったからです。
わたしは教育担当執事としてその方の転入会の準備を指導させて頂いたのですが、むしろ私のほうがその方の謙虚な姿勢から教えられました。

わたしはそれまでむしろ「わたしが教会に貢献している(奉仕している)」という傲慢な思いでいたのではないか、とその時気づかされたからです。
そうではなかったのです。神は、御子イエス・キリストを世にお送りくださり、その十字架の贖いにより、「罪人の最たる者」である私を赦し、救ってくださり、命の道へと招き入れてくださったのです。
そして今キリストは目に見えない代わりに、神は教会をキリストの体として世に立ててくださいました。罪赦され、救われて、救い主キリストの体である教会に加わることができた、その一部とされた、ということを私たちは心から喜ぼうではありませんか。

 今日の箇所の1節によれば、この手紙を書いたパウロは手紙を「コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ」向けています。
 パウロはコリント教会の人たちのことは良く知っていたでしょう。しかし、パウロがコリントを離れてからもコリント教会では信者の数が増えたようですので、パウロにとっては自分が直接は知らない信者たちも、その時は沢山いたと思います。
 パウロは、2節に書かれているように、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」を、まずは自分自身が知っているコリント教会のメンバーへ向けて送りました。
同時にパウロは、キリストからの恵みと平和を、自分は直接は知らない多くの人たちへも向けて、そしてまたコリントが位置していたそのアカイア州の全地方に住む信徒たちに向けて(その人たちのことを心に思い描いて)願い送ったのです。

キリスト者は、自分の教会での信仰の一致、信仰の交わりを大切にします。私たちは自分の信仰の群れの中にいてこそ、信仰が養われます。
しかし、教会は決して「閉鎖された」、「信じる者だけの」特殊な場所や空間ではありませんし、そのようになってもいけません。
私たちはキリストによって選ばれ、キリストの体に属する信仰者となったことを喜び、そしてイエス・キリストの福音が、私たちを通して、私たちの教会を通して世に伝わることを祈り願います。

キリストの福音の恵みは、全ての人に向けられたもの、全ての人に与えられるべきものであるからです。
伝道者パウロが今日の箇所で(その手紙の冒頭で)祈り願っているように、私たちも、“わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和”が、まず私たちの身近な人々にあるようにと祈ります。
そして私たちにとって身近な人々だけなく、イエス・キリストの恵みと平和が、私たちから遠く離れた場所の人々にもあるようにと、信仰の思いによって、私たちは神に祈り願いたいと思います。